2023年12月31日日曜日

【初心者向け】実質金利から1月のFXで狙う通貨を考える 円買いのカナダ売りになりました。

 





この動画は、実質金利から1月のFXで狙う通貨を考える方法を初心者向けに解説しています。実質金利は名目金利から予想物価上昇率を引いたもので、実質金利が高い国の通貨が上昇し、低い国の通貨が下落するという原則があります。12月のおすすめ通貨ペアはイギリス買いの南アフリカ売りでしたが、イギリス売りが進んだため失敗しました。1月のおすすめ通貨ペアは円買いのカナダ売りとなりました。 [00:00:00] FXの基本と実質金利の説明 FXでは米ドルユーロ円ポンド豪ドルが主要通貨 実質金利は名目金利から予想物価上昇率を引く 実質金利が高い国の通貨が上昇し、低い国の通貨が下落する [00:01:04] 12月の振り返りと通算の成績 12月はイギリス買いの南アフリカ売りを推奨したが失敗 通算の成績は19回中11回が成功 [00:01:29] 日米の実質金利の推移 日本はゆっくり上昇しているが、アメリカは下げが見えている アメリカは金利引き上げが一時停止しているが、今後は再開されるかもしれない [00:02:10] 通貨別の実質金利の推移 日本は最も高く、カナダは最も低い 7月以降、マイナスの実質金利の国が増えている [00:03:09] 1月のおすすめ通貨ペア 円買いのカナダ売りとなる 円は実質金利が高く、カナダは実質金利が低い

武豊ジョッキーが日本ダービーを勝利すると日経平均が上昇し有馬記念を勝利すると日経平均が下落する説を検証してみた。 あの名馬と同じパターンなので2024年の日経平均は下がる?

 




この動画は、武豊ジョッキーが日本ダービーと有馬記念を制した場合、その後の日経平均株価の動きに影響があるという説を検証するものです。武豊ジョッキーは日本ダービー6回、有馬記念4回を勝っていますが、その中でダービーと有馬記念の両方を勝ったのはディープインパクトとドウデュースの2回だけです。ディープインパクトの場合は、2007年と2008年にリーマンショックが起きて大幅に下げました。この動画は、2024年の日経平均株価も下がる可能性があるという警戒を呼びかけるものです。 ハイライト: [00:00:02] 武豊ジョッキーの日本ダービーと有馬記念の勝利と日経平均株価の関係 日本ダービーの勝利後は4回中3回が上昇 有馬記念の勝利後はこれまで4回中3回が下落 [00:02:06] ディープインパクトは2006年にダービーと有馬記念を制したが、2007年と2008年にリーマンショックで大幅に下落 [00:03:50]5 2024年の日経平均株価の見通し ドウデュースが2023年に有馬記念を制したことで、ディープインパクトと同じパターンになり2024年の日経平均株価は下がる可能性が高いという警戒を呼びかける

2023年12月30日土曜日

2023年12月末 口座残高公開(11月末比プラス25万円の813万円)(年間損益は201万円) 

 




自分の収益を公開する投資系Youtuberの特徴について調べてみました。投資系Youtuberは、自分の収益を公開することで、視聴者に自分の投資スタイルや考え方を伝えることができます。一般的に、収益を公開するYoutuberは、以下のような特徴があります。

  1. 投資歴が長い: 収益を公開するYoutuberは、投資歴が長く、投資に関する知識や経験が豊富です。
  2. 投資スタイルが明確: 収益を公開するYoutuberは、自分の投資スタイルが明確で、視聴者に自分の投資スタイルを伝えることができます。
  3. 情報の提供: 収益を公開するYoutuberは、投資に関する情報を提供することが多く、視聴者に投資に関する知識を伝えることができます。
  4. リスク管理: 収益を公開するYoutuberは、リスク管理についても言及することが多く、視聴者に投資におけるリスクについても教えることができます。

以上のような特徴がある投資系Youtuberは、視聴者にとって非常に有益な情報を提供しています。ただし、投資にはリスクが伴うため、視聴者は自己責任で投資を行う必要があります。

2023年12月28日木曜日

黒田東彦 前日銀総裁の「私の履歴書」を生成AIで分析してみた  生成AIは出口戦略をどう考える?


黒田東彦氏が日本銀行総裁としての出口戦略について語っています。 その内容を要約すると、以下のようになります。

  • 出口戦略の必要性:黒田氏は、日銀が2013年から導入した大規模な金融緩和政策は、デフレからの脱却と物価安定の目標達成のために必要だったと述べています。1しかし、その効果は限られており、長期的には金融市場の歪みや財政の健全性の低下などのリスクをもたらす可能性があると指摘しています。そのため、日銀は、経済状況や物価動向に応じて、金融緩和の規模や期間を調整する出口戦略を準備する必要があると主張しています。
  • 出口戦略の条件:黒田氏は、出口戦略を実行するための条件として、以下の3点を挙げています。
    • 物価目標の達成:日銀が掲げる2%の物価安定目標が達成されるか、達成される見通しが立つこと。
    • 金利の上昇:金融緩和の解除に伴って、長期金利が上昇することを想定し、金融市場や実体経済に与える影響を評価すること。
    • 国際的な調整:日銀の政策変更が他国の金融政策や為替レートに与える影響を考慮し、国際的な協調やコミュニケーションを行うこと。
  • 出口戦略の方法:黒田氏は、出口戦略を実行する方法として、以下の2点を挙げています。
    • 政策金利の引き上げ:日銀が設定する短期金利の目標である政策金利を段階的に引き上げること。
    • 国債の売却:日銀が保有する国債の一部を売却することで、日銀のバランスシートを縮小すること。ただし、国債の売却は、政策金利の引き上げよりも後に行うことが望ましいと述べています。 


【私の履歴書 黒田東彦①】

最近の筆者

デフレ脱却に天命感じ
通貨外交、模索の連続


2013年2月21日だったと思う。 

マニラのアジア開発銀行 (ADB) 総裁室で補佐官がつないだ電話の驚きを、鮮明に覚えている。

 「白川方明日本銀行総裁の後任とし黒田さんを指名したい」。

安倍晋三元首相の声だった。

安倍氏にはADB総裁として二、三度アジア経済について説明しただけだ。

総裁候補との時はマニラにも届いたが、 ADB総裁に3選されて、1年しかたっていなかった。 

一瞬戸惑ったものの、私は指名を受けることにした。


日本経済は1998年に始まったデフレが15年間も続いていた。

2008年9月の世界金融危機 「リーマン・ショック」による経済低迷と11年3月の東日本大震災後に1㌦=75円まで進んだ円高・ドル安のもとで、

デフレは深刻さを増した。

困難であろうが、だれかがデフレを止めねばならない。 

この指名は私にとっての天命と思ったのだ。


私は慌ただしく東京に向かった。

国会でデフレ脱却に向け最大限の努力を払うと述べ、同意を得て第31代の日銀総裁に任命された。

13年4月の最初の金融政策決定会合で、2%の物価安定目標をできるだけ早期に達成するため、大幅な「量的・質的金融緩和」の導入を全員一致で決めた。


10年余りの総裁在任中、私政策やアジア援助政策を調整はデフレ期に醸成された「物価も賃金も上がらない」という社会通念(ノルム)を打破し、

日本をデフレから脱却させることを目指した。

新型コロナウイルスの感染拡大や、ロシアのウクライナ侵攻といった波乱にも見舞われた。


困難の中で常に頭にあったのは、何が日本にとって最適な対応か、何が国益かということであった。

日銀の同僚と総力を挙げた大幅な金融緩和で「デフレではない」経済は実現した。

企業収益は倍増し、4百万人を超える新規雇用が創出された。

2%の物価目標は道半ばだったが、来年には2%目標が持続的で安定的に達成されると期待している。


1967年に大蔵省(現財務省)に入り、米欧との通貨 する国際金融局長を2年、財務官を3年半務めた。

アジア経済の発展を支えるADB裁の8年、今年4月に退任し日銀総裁の10年と、内外の公共部門に合計56年仕えた。


71年のニクソン・ショック、73年と79年の石油危機、 85年のプラザ合意。

国際通貨と国際協調の仕組みが変貌する時期に政策の現場にいた。

止まらぬ円高に対応する大幅な財政金融の拡張策で、経済の回復と裏腹に資産バブルが膨張するのを懸念を抱きながら目撃した。


90年代の日本のバブル崩壊や銀行危機、さらにアジア通貨危機や世界金融危機と、国内外の経済は試練だった。

解が見えない局面で、どう日本の国益と世界の利益を両立させるかを考えた。

米財務長官を務めたサマー氏やガイトナー氏をはじめ、世界の国際金融当局トップとは、ひざ詰めの交渉の連続だった。

うまくいったことも、いかなかったこともある。


高校時代に読みふけったオーストリアの哲学者カール・ポパーの「歴史主義の貧困」私の知的原点だ。

日米安保条約改定への反対デモが日本を覆った時、主導したマルクス主義者の議論に疑問を感じ、ボバーの同主義への根的な批判に惹かれ

した。歴史を理論として妄信すべきではないとの考えに深く共感している。


今後も日本は様々な試練に直面する。 

終戦期に生まれ、半世紀以上も政策の現場にいた体験を、次世代を担う人々のために記そうと考えた。

しばらくお付き合い願いたい。


(前日本銀行総裁)

題字も筆者


【私の履歴書 黒田東彦②】




灯台守の父、敗戦悟る
校長が告げた講和条約


独立のサイレン

私は1944年10月25日、父・黒田聖三郎と母・安子の長男として、福岡県大牟田市生まれた。 

生まれてすぐに空襲警報が鳴り、母は、私を抱いて病院から近くの防空壕に逃げたそうだ。


福岡県出身という経歴だが思い出はほとんどない。 

3歳ごろ、母の買い出しで載せられた乳母車から美しい夕焼けを見た。自身の記憶なのか、母から聞いた話の再現なのか、いまもあいまいなままだ。

「東彦」の名前は漢字に詳しい父の伯母が付けた。 

「東」は陰陽五行説で春であり、「東宮は春宮とも書く」といわれ「はるひこ」にしたという。


父は没落した酒屋の三男だった。 

福岡県立三池中学校(現 県立三池高校) 優等で卒業したが、長兄や次兄のような高等教育を受けられず、一時は親類を頼って台湾に行った。

日本に戻って灯台官吏養成所(現海上保安学校)を卒業し、灯台守になった。


母は旧姓を塚本といい、 旧満州(現中国東北部の大連で銀行支店長をした祖父の家で裕福に育った。

女学校への登下校には満州人の下僕が付き添ったという。

祖父は満州事変の前に銀行を退職して大牟田に帰り、祖母と長女の母はじめ子供7人と暮らした。


両親は見合い結婚した後、樺太の灯台の官舎で新婚生活を始めた。

季節ともなると海からカニが数知れず浜に上ってきたと、母は楽しそうに話していた。


父は沖を行く日本の商船とモールス信号で交信していた。

米国が迫る日本の劣勢を船の動きで悟ったのか「日本は負けると思った」と当時の心境をのちに話してくれた。


終戦後、父は海上保安庁の職員として、主に経理補給を担った。

海上保安本部のある地への転勤を繰り返した。


記憶がはっきりある幼稚園児のころは、第2管区海上保安本部のある宮城県の塩釜にいた。

49年春から約1年間、塩釜神社の裏手に1軒ぽつんと建つ官舎に、両親と2年年上の姉再子と4人で住んだ。 

大雪の際、父が作ったそりで、姉と何度も庭から坂を滑って遊んだのを覚えている。 


幼い私には塩釜神社の急な石段は怖かった。 

30分以上かけて女坂を友達とゆっくり降り、聖光幼稚園というキリス教の幼稚園に通った。

2階の広い部屋で歌ったり踊ったりして、階段の脇にある滑り台を滑り降りるのが常だった。

母はいつも着物を着ていたが、幼稚園の先生方はみな、洋装だったのが印象に残る。


父は横浜の第3管区、神戸の第5管区の各海上保安本部に短期間で次々と転勤した。  

神戸市東灘区本山町の公務員宿舎に移り住み、50年度の2学期から市立本山第二小学校の1年生に転入した。


本山二小は33年竣工、鉄筋コンクリート3階建ての堂々たる校舎だった。 

谷崎潤一郎の「細雪」にあるように、38年7月の阪神大水害で住吉川が氾濫して地下室が水浸しになり、私の時代も使用禁止のままだった。


小3になってすぐの52年4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効し、日本は独立した。

本山二小の校庭でサイレンが鳴り響き、校長が放送で 「日本は独立しました」と告げた。


生活には何の変化もなかった。

街で見る米兵の姿はそのままだった。

労組が活発な兵庫県らしく授業を放棄した教員が校庭に集まる回数が増えたように思われたくらいだ。


それでも、何か目に見えないものが変わっていくように感じた。

振り返ればあの時が、社会や国家に対する目覚めだったのだろう。

(前日本銀行総裁)




【私の履歴書 黒田東彦③】


多聞小時代に近所の人たちと松竹大船撮影所を訪れ、高峰秀子さんと

(筆者は前列右から5番目、高峰さんは同7番目)


2人の恩師

神戸市立本山第二小学校に通う私は、わんぱくな少年だった。 

公務員宿舎の枇杷の木に登り、枝が折れて地面に落ち、頭にできた傷の縫合手術した。 

学芸会では舞踊や劇に出て、 浦島太郎の役を演じた。 

成績はクラスで中くらいだったと思う。


3年生の時に、9歳年下の妹牧子が生まれ、姉再子とともに子守をした。

母と姉はよく宝塚歌劇を観に行っていた。

私も一度だけ連れていかれた。

春日野八千代主演の「トゥーランドット」だったと思う。

大階段からスターが下りてくる情景を記憶している。  

小学校時代の恩師が2人いる。

1人が3年生の時の担任で、神戸大学を卒業したばかりの鈴木正二郎先生だ。

私たち生徒を神戸大学の学園祭に案内してくれたり、休日に仁川のピクニックに連れて行ってたりしてくれた。

私たちは若い先生を、まるで兄のように慕っていた。

あまり「勉強しろ」といわれた覚えはなく、私たちは独身の先生の実家にも押し掛けたものだった。

特に親しかった同級生は家の近くでよく遊びに行った安念寺の息子の宮一弘君だった。

後年には住職となったが1995年の阪神大震災で本堂が倒壊し、その再建にまい進した。

重い苦労がたたったのか、若くして亡くなってしまったのが残念だ。


同級生でYMCAに勤めた桐谷利君から、鈴木先生が 60歳で定年退職すると聞き、先生のお祝い会に駆け付けた。

全国に散らばっていた数十人の教え子が集まり、白髪になった鈴木先生から「柳谷君、黒田君」など一人ひとり名前を呼んでいただいた。

 一番驚いた話は、鈴木先生が本山二小から恩師の勧めで学校を移り、その後は重度心身障害児の教育に一生をささげられたことだ。

ニコニコと朗らかに話す鈴木先生を見て、このような人が日本の教育を支えているのだと思った。


小学5年生の時、父が東京の海上保安庁に転勤して、世田谷区池尻町の公務員宿舎に引っ越した。

転校した世田谷区立多聞小学校で5~6年生の時の担任がもう1人の思師である東京教育大学(現筑波大学)出身の山田豊子先生だった。

先生は日本史が得意で、平安から江戸にかけての話をたびたび聞いた。

どうしたことか、神戸でわんぱく少年だった私は東京でクラスの優等生になり、級長にまでなった。

山田先生は、生徒たちを自宅に呼んで、日々の勉強の補習のようなことをしてくれた。


同じ公務員宿舎に住み、 後に埼玉銀行に勤めた同級生の石原明彦君と、同じクラスの及川厚君の家によく転がり込んだ。

及川家に下宿していた本間さんという東京教育大学の学生が、私たちに勉強を教えてくれた。

ふだんは無口な父が「ここはいい学校だ」と珍しく勧めたのが、公務員宿舎の隣にあった東京教育大学付属駒場中学校だった。

山田先生や本間さんの指導のおかげで、入学試験に合格することができたのだと思う。

山田先生は2005年、私がアジア開発銀番行 (ADB) 総裁としてマニラに出立する前に、同級生の石原君やNECに勤めた松岡茂君などを交えて激励会を開いてくれた。

山田先生はお年を召しておられながら、ニコニコした表情で私たちの話を聞いてくれた。


小学生の時は友達もできるが、何といっても先生の影響が大きい。鈴木先生と山田先生という素晴らしい恩師に巡りあえたことが、その後の生涯を決めたように思う。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦④】


教駒の6年間をともにした同級生と  

(前列左から3人目が筆者)


級友に刺激、物理書を乱読
安保騒動で哲学に目覚める


「教駒」の6年

東京教育大学(現筑波大学)付属駒場中・高等学校は男子校で「教駒」と呼ばれた。 当時は今のような難関ではなかったが、中学の入試倍率は7~8倍だったようだ。

 

 入学すると驚くべき同級生がいた。後に通産省(現経済産業省)に進んだ松本厚治君。

アインシュタインの複雑な「相対性理論」を立て板に水で説明してくれる。

「子供の科学」や「科学画報」くらいしか読んだことがない私にはまったく理解できない。大いに刺激を受け、 図書室で物理学や数学の本をむさぼるように読んだのを覚えている。

旧陸軍兵舎を改造した木造の校舎で、掃除をさせられる生徒は床の穴を見つけ、ごみを放り込んだ。

生徒が音楽教室のピアノに入れた蛙が飛び出し、 唯一の女性教諭だった国分教諭が「キャッ」と驚いて教室を出て行った。

旧制中学のような雰囲気だった。

東京農業教育専門学校の付属校として開校した歴史から、高校には農業科があった。

演習に使う畑もあり、中学や高校の普通科の我々も、日本の農学発祥に貢献したドイツ人教師の名を冠した「ケルネル田んぼ」で田植えをした。

毎年、夏期合宿として野辺山の信州大学寮に滞在し、美ケ原を散策したり、

八ケ岳に登ったりした。 

中学に入学した86名とは、高校卒業までの6年間、授業、部活、合宿などを通じて深く付き合った。

久米五郎太、黒田啓征、近藤章、細田博之ら諸君とは、現在でもよく会っている。

教師は文部省の学習指導要領にとらわれず、好きなことを教えた。

日本史の坂根教諭は1年かけて「明治維新の舞台裏」について語り、英語の

浅原教諭はシャーロック・ホームズのシリーズを毎話した。

数学の秋葉教諭は「ニューマス」のベクトルや行列式を説明し、生物の重松教諭は、当時最先端のDNAやRNAの科学を解説してくれた。

教駒の6年間で最大の事件は60年安保騒動だった。

中3から高1のころ、全国で日米安全保障条約の改定に反対するデモが広がっていた。

ホームルームや休憩時間では安保改定の議論が熱を帯びた。

かなりの生徒は安保条約改定や自衛隊の強化に懐疑的だった。

「いまソ連や中共が攻めてくる心配があるのか」

「日米共同行動が増え、むしろ戦争に巻き込まれる恐れがある」という意見だ。

私は違う立場だった。 

「いま改めてこなくても、将来の保険の意味で安保改定は必要だ」と思い、むしろ戦争抑止力が高まると考えた。

生徒の何人かは実際にデモにも参加したようだ。

教師は「けがをしないように」 と言うにとどめていた。

安保改定の反対論を主導したのはマルクス主義者だった。

違和感を覚えた私はマルクス主義や集団主義に徹底した批判を展開する哲学者、カール・ポパーの「歴史主義の貧困」に深く感動した。

丸善に行ってポバーの「開かれた社会とその敵」 上下2巻の英語本を買い、英和辞典を引きながら懸命に読んだ。

マルクスやエンゲルス、そしてプラトンやヘーゲルの哲学に対する一連の批判も興味深かった。

高3を迎え、天文学者を志す理系少年の私は志望校として東京大学の文科1類を選んた。 

物理学の力学はよく分かったが、電磁気学が理解できず、理系に進む自信がなくなった。

両親は志望に口出ししなかったが、公務員だった父から「文1を選んだのは良かっ

 た」と言われた。

入試に自信はなかった。

合格発表は東大駒場キャンパスまで母と姉に見に行っても

らった。

何とか入学できたのだった。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑤】


一時は法曹を目指した

(法学部でお世話になった碧海純一教授)


東大で法学者志す
危機感に引かれ大蔵省へ


分析哲学

1963年4月に東京大学教養学部に入学し、ドイツ語既習クラスに入った。

高校時にドイツ語を少し学び、マルクスやポパーの原書を読んでみたいと思ったからだ。


担任教授は小宮職三教授。

夏目漱石の弟子で「三四郎」のモデルになった小宮豊隆教授の子息だ。 

ゲーテやシラーの文章より、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」を1学期かけて読ませたり、独紙「フランクフルター・アルゲマイネ」の切り抜きを教材にしたり、日常で使うドイツ語の理解に力を注いでくれた。

ドイツ語習クラスは文科1~3類で合計20人足らずだった。

本当にできたのは戦前から独語教育を実施した松本深志高校の卒業生だけだ。

その典型が稲川照芳君だ。

外務省に入省し、独語を話す「ドイチェ・シューレ」として活躍してハンガリー大使になった。 

小宮教授の後押しもあり、ドイツ語既習クラスは駒場祭でデュレンマットの「物理学者たち」を原語で演じた。

ほとんど聴衆がいなかったのが残念だったが。


1~2年の駒場キャンパスで興味深かったのは大森荘蔵教授の科学史だ。

古代ギリシアの原子論から現代の量子力学や生化学まで、科学史を大森哲学で切る。

「なぜ赤い花が見えるか」の話は秀逸だ。

現代科学では、赤い光を反射した光が網膜に像を結び、視神経から脳の視覚野に情報が伝わるとする。

しかし、目や脳の中に映像らしきものが赤い花がそこにあるだけで、あると説明できない。

科学による説明と我々の実感は重なり合うが、それはあくまで別物である。

大森哲学は「立ち現れ一元論」だ。

もう一つ、深い興味を抱いた講義が、碧海純一教授による法学概論だった。

「法とは何か」「法の定義」「法の解釈」などの基礎的な法知識を教える際に、ラッセルやポパーなどの分析哲学の手法を駆使して快刀乱麻で回答を見いだす。

両学者の論理学や哲学は私も勉強したものの、法学の根本問題がそれで鮮やかに

解決されることに感激した。


本郷キャンパスの法学部でも、碧海教授の法哲学の講義やゼミに参加した。

後に東大教授となる長尾龍一助教授らと、正月に自宅に呼ばれるようになった。

法哲学の研究者になれればと思っていたが、碧海教授から助手の誘いはなかった。

「黒田君が大蔵省(現財務省を志望していると聞き、声をかけなかった」と、のちに教授から言われた。

法学部では来栖三郎 加藤一郎、星野英一の各教授の民法講義を聴講した。

星野教授に促されて司法試験を受けることになり、友人の黒田啓征君や近藤章君らと法律の勉強会をした。

受かれば裁判官になるつもりだった。

司法試験は合格したが、法曹はあきらめた。

普段は何も言わない母から「お前に人が裁けるのか」と問われた。

振り返ると、死刑判決などはとても書けそうになかった。


就職説明会で各省の人事課長はそれぞれの仕事の重要性と意義を強調した。

大蔵省の高木文雄秘書課長は違った。

「大蔵省は困難な状況に直面している。 若い諸君の力を借りたいのだ」。

その言葉に引かれ大蔵省を受けた。

第2志望とし日本開発銀行(現日本政策投資銀行)を受けた。

「大蔵省に採用されたらそちらを優先する」と断った上で内定をもらった。

第1志大蔵省に決まり、断りに行こうとしたら、母が「先方に迷惑をかけたのだから」と、菓子折りを持たせてくれた。

その気遣いに、開銀の人事担当者は驚いていた。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑥】


東大ではほぼ全学部がストに突入した (1968年6月)

公務員ストで勉強会
大学紛争、採用に影響



大藏省秘書課

1967年4月に大蔵省(現財務省)に入り、大臣官房秘書課調査係に配属された。


主な仕事は職員の海外出張の世話だった。 

大臣までの決歳を取って発令し、会計課から旅費の支出官負担証明をもらい、外務省から公用旅券取り付ける。 

大蔵本省、財務局、税関の海外出張事務を手に引き受け、旅費予算要から管理まで担当した。


このころ、国際会議での海外出張が増えていた。

係長と2人の係員による事務が膨になり、翌年に係長心得になった私は決裁を簡略化した。

大臣辞令を単なる出張命令通知に変え、 辞令の印刷や人事記録カードの記載をやめた。

関税局の人からは「税関職が外航船に乗って世界の税を視察する際、生涯に一度

の大臣辞令がもらえなくなった」と嘆かれてしまった。


最初にお世話になったのが1年上の藤井誠人係長だ。

入りの私に電話の受け方から決裁文書の書き方や他省庁との交渉術まで教えてくれた。

藤井さんの下で職員の営利企業への就職に関する人事院承認の取り付けも担当した。

職務上の関係はないとOKしたが、人事院から承認されず迷惑をかけたこともある。


秘書課は定時退庁の珍しい部署だったが、夏もきちんとワイシャツとネクタイを着

る。

冷房がなく、他の部署はTシャツやステテコ姿が当たり前だったのとは対照的だ。


当時の秘書課の懸案は、国家公務員に団体交渉権や争議権を与えるかどうかという間題だった。

内閣の公務員制度審議会で議論が進み、後に大蔵事務次官になる吉瀬維哉秘書課長、国土事務次官になる吉居時課長補佐が頭を悩ませていた。

公務員制度に関する秘書課長の私的研究会ができ、調査係が事務を担った。

従来の判例では、国家公務員の争議行為は禁止し、代償措置として人事院勧告があるとされた。

公務員のストは国民生活に重大な支障をきたす恐れがあるとの理由だ。

だが、警察官や消防士はともかく、国家公務員の多くはストをしても国民生活に重

大な支障を来さないのではないかと疑問が浮上した。

ストをすれば同様に国民生活を混乱させる民営の鉄道や電力会社の職員には団体交渉権や争議が認められている。

課長の研究会は内閣法制局OB、大学教授 弁護士ら数人から意見を聞き、私も日程

調整やメモ取りに奔走した。


彼らの意見では、公務員給与は争議権を背景にした交渉でなく、憲法の「財政民主主義」により国会で決められるべきだとの整理だ。

75年4月25日、画期的な「全農林警職法事件」の最高裁判決はまさに同様の内容だった。


秘書時代のもう一つの難問が大学紛争だった。

東大は68年1月に医学部の研修医を巡って始まったストが、6月にほぼ全学部に広がった。

大蔵省が採用予定の上級職二十数名の大半が東大生で、影響が心配になった。

個人的に様子を見に行ったが、マスク姿の学生がジグザグデモをしており、混乱は明白だった。

私は内定者に集まってもらい、入省の意思を確かめた。

数名が内定を断った。

「東大と同じアシャンレジーム(旧体制)の大蔵省は辞退したい」と言われたのだ。

大学紛争は東大だけでなく国内の多数の大学でさまざまな理由で広がったが

世界的な潮流であった。


米国ではベトナム戦争反対、フランスでは授業料引き上げ反対。

ドイツでは大学の民主化要求でキャンパスが揺れた。

60年代末の地球規模の学園紛争は、戦後秩序に対する世界中の若者による抗議だったのかもしれない。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田黒彦⑦】


オックスフォード大で学んだヒックス名誉教授の金融論今も有益となっている

エコノミスト誌に投稿
ハロッド卿と寮で議論


オックスフォード大で学んだヒックス名誉教授の金融論今も有益となっている


英国留学

大蔵省秘書課の勤務を終え、人事院の在外研究員として1969年6月から2年間、英国に留学した。 

江田五月東京地裁判事補(後の参院議長) や林康夫通産省事務官(後の中小企業庁長官)ら合計6人の英国留学組がヒースロー空港に入った。

ところが、迎えてくれるはずのプリティッシュ・カウンシルの人がいない。

やむなく6人で語学研修を受けるケンブリッジに向かった。

ケンブリッジ駅で別れ、下宿先の家に行ったが、誰もいない。

困惑していたところ、 家の夫人が戻ってきてほっとした。


ケンブリッジのベル・スクールという語学学校の授業は午前中だけだった。

あとは江田さんや林さんとパプで食事したり、ケム川で舟遊びをしたりして楽しんだ。

そんな時にベル・スクールで読んだ「エコノミスト」誌に、オックスフォード大で67年まで経済学を教えたロイハロッド卿の論考が載っていた。

大いに興味を持った。


総需要が供給能力を超えて大きい場合、需要を減らせば物価を抑制する傾向を持つ。

だが総需要が供給能力を下回る時は、少なくとも先進国では「需要削減は物価を引き上げる方向に働く」という主張である。

当時は「ハロッドの二分法」と呼ばれ、説得力を欠くと批判されていた。

だが私はハロッドの主張にも一理あると考えた。

投稿を思い立ち69年8月23日の英エコノミスト誌に英文の私見が載った。

「経済が供給能力のはるか下まで抑圧されるなら、価抑制傾向が支配的になることも認めなければならない」前置きした上でこう続けた。

総需要を横軸、物価水準を縦軸として曲線を描けば、全体としては右上がりになる。

だが、供給能力の少し下の部分に注目すると、ハロッドが主張したような、例外的に右下がりの総供給曲線が見いだされる。

「この部分を、私は『ハロッドのねじれ』とよびたい」と論じた。


その後、語学研修を終えてオックスフォード大に移った。

70年10月24日号のエコノミスト誌に再び投稿した。

「少なくとも朝鮮戦争以降の51~67年に、物価上昇率と経済成長率はおおむね負の相関関係にある。

このような『ねじれ』は、ハロッド卿の主張のように、規模の経済などから生じている」と記したのだ。

この直後のことだ。 私の通うウースターカレッジの大学院寮の私の部屋に突然、ハロッドが現れたのである。

ケインズとも親しかった彼は、やせた背の高い英国紳士だった。

部屋に招くと帽子を取って椅子に腰を下ろし、私の2度目の投稿について語りだしたのだ。

内容はほとんど覚えていない。

だが、東洋から来た一留学生とも議論する知的な誠実さに感動した。


オックスフォード大ではジョン・ヒックス名誉教授の金融論に関するゼミが極めて面白かった。

20名ほどの大学院生や講師が週に1回集まり、ゲストスピーカーの話を聞いて議論し、ヒックス氏が結論を述べる。

英中央銀行、イングランド銀行理事の金融政策にる関する説明を受けた日。

議論のあと、ヒックス氏が「イングランド銀が公定歩合をわずか0.5%引き上げただけで、景気過熱が止まり、物価上昇に抑制的に働く。

そこには「必要があればいくらでも金利を上げる」という中央銀行の決意が示されているからだろう」と語った。


金融政策でのコミットメント(約束)の重要性を述べた指摘は、半世紀後にはからず

も日銀総裁となった私にとって、これほど有益なものになるとは思いもしなかった。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑧】


入省5年目に「変動相場制への移行」 を大蔵省の広報誌で提言した。


国債課で大増発に奔走
変動相場移行を省内で提言した。


固定相場崩壞

英国留学から帰ると大蔵省理財局国債課の企画係に配属された。

国債の新規発行額は4300億円と、数十兆円台の現在とは2ケタ違う。

資金需給を踏まえ、金融機関の国債引受シンジケート団(シ団)と毎月の発行額を決める。 

それも禿河徹映国債課長の下で、竹内克伸課長補佐と相談するだけだ。 


留学帰りでも難しくない仕事だと思った。

だが、1971年8月16日ニクソン・ショックで状況は激変する。 

各国が平価を定めた米ドルと金との兌換の停止をニクソン米大統領が発表し、2年間続いた1=360円の固定相場がひっくり返った。

大事件を受け、国債課も一挙に忙しくなった。

政府は10日間ほど固定相場死守したが、結局は不可能になった。

円はフロート(変動相場制)になり、300円向かって円高・ドル安が進んだ。

来るべき円高不況に備えて公共事業を大幅拡大し、国債発行額を3倍の1兆2000億円に増額することが決まった。

国債発行の急増に対応するため、シ団の参加者を増やし、引受手数料の引き上げや国債金利の引き上げが必要と考えた。

その議用のペーパーを急いで用意したが、橋口収理財局長(後の国土事務次官)は了解しなかった。

平沢貞昭・総務課課長補佐(後の大蔵事務次官)に相談した。

 「諸外国の国債制度を詳しく調べ、これしかないという提案をしない限り、橋口局長は納得しない」と言われた。

内外の文献に急いで当たり、30ほどの資料を作って説明した。

橋口局長を何とか了承し、直ちにシ団世話人の全国銀行協会連合会(現全国銀行協会) 一般委員長の板倉譲治・三井銀行(現三井住友銀行) 専務に連絡された。


国債金利の引き上げでは利払い費の増加を嫌う主計局との折衝が難航した。

償還の年限を7年から10年に延ばし、金利引き上げが合意された。

10年物国債が長期金利となったのはこの時だ。

大蔵省は固定相場制の復活を目指し、G10(10カ国蔵相会議)で合意を得ようと努力していた。

だが、私には違和感があった。


英オックスフォード大で国際経済学を学んだコーデン准教授は、経済や金融の国際化のもとで、変動相場制の方が財政・金融政策の有効性が高まると論じた。

私も同意見で、71年11月の大蔵省広報誌「ファイナンス」の「若い論苑」という欄に日本の変動相場制移行へ省内で提言した。

省内主流の考えと百八十度違う意見をよく掲載してくれたと思う。

71年12月のG10スミソニア合意で1㌦=308円の固定相場が復活したが、ドルの金兌換は復活しなかった。

73年2月、固定相場制は主要通貨がフロートに移行して崩壊した。

それから変動相場制が現在まで続く。


振り返れば、米国は71年に 3つの「ニクソンショック」を断行したと私は思う。

第1は6月に沖縄返還協定に調印し、戦後の日本占領を最終的に解消した。

2つ目に、7月に大統領補佐官のキッシンジャー氏を北京に派遣して中国との国交回復に踏み出した。

明らかにベトナム戦争から手を引く布石だった。

第3に、8月にドルの金兌換を停止し、円とマルクの相場切り上げとドルの切り下げを促した。

戦後に圧倒的な経済力を誇った米国経済がベトナム戦争で疲弊し、日本やドイツ経済の力強い経済に再興に対抗しなければならなくなった。


私は22年7月に福島県のいわき税務署長になった。

休日には、新婚早々の妻久美子と勿来の関跡や白水阿弥陀堂などを訪ね、現地の生活も楽しんだ。(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑨】


IMF理事補時代に訪米した森永日銀総裁(当時、写真中央)らと

(1977年5月、左から2人目が筆者)


資本流出規制へ大転換
IMF協定改正の論争に直面


石油危機 

1973年7月、私は国際金融局(現国際局)の企画課課長補佐になった。

当時は円高ドル安が1=260円まで進んでいた。 

外国為替管理法による為替管理を主管する企画課の仕事は、日本からの資金流出を促し、資金の流人を抑えることだった。

73年10月に起きた第1次石油危機で事態が一変した。 

第4次中東戦争の勃発をきっかけに、石油輸出国機構(OPEC)の湾岸諸国が原油価格を1バレル約3㌦から約12㌦へ4倍に引き上げた。

石油の大半を輸入する日本は、原油価格上昇と1㌦=300円近くに進んだ円安による二重のコスト高に見舞われた。

それまでの金融緩和もあってインフレが加速し、74年に24%の消費者物価上昇率という「狂乱物価」が生じた。

私は資本規制の担当だった。

 

平井龍明審議官や長岡夫課長と相談して「流入規制・流出促進」の規制を「流出規制・流入促進」へと百八十度転換した。

ある朝、全国の指定証券会社の担当者を呼び出し、間接投資に対する包括許可の即時撤回を通告した。

国際通貨基金(IMF) は産油国から借り入れた資金を元手に石油輸入国に融資する「オイル・ファシリティー」を創設した。

金融引き締めでなく、通常の財政金石油消費の節約だけを条件とする特別な措置だったが、米国が「産油国に安全な投資先を提供する」と反対した。

日本は制度を使わず、サウジアラビアから30億を借り入れた。


74年7月に私は国際機構課に異動し、経済協力開発機構(OECD) 担当課長補佐になった。

直後にキッシンジャー米国務長官が、オイルマネーの還流国から外貨不足となる国に資金を融通する「ECD金融支援基金」の創設を提案した。

消費国が石油を融通し合う国際エネルギー機関(IEA)の発足が成功したのに続きOECD諸国の団結を保ち産油国の誘いに抵抗することを目指したものだった。

協定文の起草を巡る法律的な議論が始まり、 藤岡真佐夫国際金融局次長(後のアジア開発銀行総裁)、行天豊雄国際機構課長(後の財務官)がOECDの事務局と交渉する

機会が増えた。

行天さんは部下に自由闊達な議論をさせ内容をOECD側に伝えて巧みに説得していた。

英語、フランス語、ドイツ語に加え、協定の正文に日本語も入れてもらった。

多国間協定ではまれなことだ。

協定は75年のOECD閣僚理事会で署名されたが、米国の議会が承認せず、支援基金

が幻に終わったのは残念だ。


75年にワシントンに赴任し、IMF日本理事室の理事補を1986年まで務めた。

最大の懸案は11年のニクソン・ショックで固定相場制とドルの金兌換が壊れ、IMF協定の改正が不可避になったことだ。

76年1月のジャマイカでの暫定委員会で相場のフロート(変動)を公認し、 金定価格を廃止することに合意した。

半年かけて理事会で協定の改正を議論した。

米国は制度乱用に強い歯止めを求めた。

国際収支の効果的な調整を妨げたり、不公平な競争上の優位を得たりするために「為替相場または国際通貨制度を操作することを回避する」との条文がIMF協定第4条に入った。

だがその解釈で加盟国は合意できなかった。 

現在も有効なフロートの指針は合意されていない。


ワシントンの3年間に住んだタウンハウスの隣が、米上院議員のパトリック・リーヒ一家のお宅だった。 

家族ぐるみでお付き合いし、私が離任する際のIMFのお別れパーティーにも議員は参加してくれた。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑩】


一般消費税問題で衆院予算院で答弁する大平首相
(1979年3月)

大平政権 原油高で挫折
グリーンカードも拙速否めず


幻の一般消費税

国際金融とともに、大蔵省で私が携わったのが税制の仕事だ。 

1978年7月、米国から帰任して主税局調査課の課長補佐となり、現在の消費税の一昔前に浮上した「一般消費税」の導入を準備した。

当時は第1次石油危機後の経済不振に対応する景気対策などで財政赤字が増え、国債残高が急増して財政再建が喫緊の課題だった。

政府税制調査会は77年の中期答申で新た間接税として一般消費税導入を求め、特別部会で具体的な検討が進んだ。

私は特別部会長の木下和夫大阪大学名教授の指導のもと、一般消費税の経済効果を分析した。

まず導入時の経済への影響を、日本経済研究センターのマクロ計量モデルで推計してもらった。

財政再建が緊急課題とされている場合、増税をしなければ出が削減される。 

増税を実施すれば歳出が維持でき、経済はより改善する。

家計調査の「個表」を使い所得の階層別にみた一般消費税の負担も調べた。

一律の課税では所得の低い人の負担が相対的に重くなる逆進性が生じる。

だが食料品を非課税にすれば所得と負担が比例するより公平な姿になった。

食料品を非課税とする一般消費税の導入へ光明が見えたと思ったが、財政再建への国民の理解が必要だった。

私は調査の一員として財政再建を訴えるパンフレットの作成を進めた。

大蔵省で初だったと思う。


利払い費が増えれば財政の硬直化で必要な経費の支出が圧迫される。

一方で過度の金融緩和はインフレを招く。

だから財政再建は重要で、所得税や法人税の増税に限界がある中で、一般消費税の導入が必要だと訴えた。

78年12月に就任した大平正芳首相は一般消費税導入に向け、強い指導力を発揮した。

年末に政府税調が税率5%で食料品を非課税とする一般消費税の導入を答申。

翌79年1月に一般消費税を「昭和55年度 (1980年度) 中に導入できるよう、諸般の準備を進める」と閣議決定した。

同じ頃のイラン革命があだとなった。

7月にかけて原油価格が上昇、第2次石油危機による不況が懸念された。


大平首相は衆院を解散し10月の衆院選に臨むが、自民党は大敗。一般消費税は葬られた。

その後、政府は「一般消費によらない財政再建」を掲げた。

私は80年7月に税制2課の課長補佐となり、酒税物品税、印紙税の同時増税の作業にあたった。

これら3税で8500億円の増収を実現したが、既存の間接税や法人税の大幅増税は経済界などから強い反発を招いた。

これがのちの「増税なき財政再建」の流れを生むことになる。


81~84年には主税局の総務課企画官としてグリーンカードの導入に取り組んだ。

正式名称は「少額貯蓄等利用者力ード」といい、80年度の税制改正で利子所得の総合課税とともに導入が決まっていた。

元本300万円までの預貯金利子などを非課税とする「マル優」や郵貯など非課税貯金制度を利用する際に、カードを交付して口座の本人確認を徹底する狙いだ。

限度額以上に非課税貯蓄制度を利用して利子総合課税の負担を逃れるのを防ぐ意味があった。

郵貯や銀行の反対論は強かった。

与党が議員立法で5年延期を提案し、88年1月予定のグリーンカド交付は危ぶまれた。

82年1月に就任した竹下登蔵相が決断し、法制局を説得して、カード交付を「別に政令で定める日」に延期した。

その後、総合課税とグリーンカードは廃止になった。


一般消費税もグリーンカードも当時に必要な税制改革だったと思う。だが、やや拙速で国民の納得が得られなかった。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑪】


地方行政の面白さと難しさを身をもって知った
(三重県の消防大会で挨拶)

議員への断り役を自任
賠償や交付税の矛盾指摘


三重県庁勤務

1984年から2年間、三重県総務部長の仕事を担った。

この期間は私の人生にとって特別な意味がある。

大蔵省の外に出て、全く異なる地方行政の面白さと難しさを現場で体験できたからだ。


県総務部には人事、厚生、財政、税務、管財、営繕、地方、消防防災、学事文書の9課があった。 

大半が私にとって経験のない分野だった。

着任早々の記憶は鮮明だ。

田川亮三知事に挨拶をし、前任で大蔵省の2年先輩の薄井信明部長(後に大蔵事務次官)から引き継ぎを受けた。

各課の事務説明も終わらない前に、職員組合との「着任団交」が待っていた。

地方自治が確立して久しいのに、中央官庁から県庁の幹部に出向してくるのはいかがかというのが組合側の問題意識だ。

「田川知事の下で、中央政府のためではなく三重県のために働く」と決意を語った。


その後、組合とは良好な関係を築くことができた。 

知らなかったのは、地方公務員のうち用務員や技手など現業職員には団体交渉権があり、毎年、賃上げ交渉をする必要があった点だ。

一般の地方公務員は国家公務員と同じで団体交渉権も争議権もない。

国の人事院と同様に県の人事委員会が給与の上げ幅などを勧告し、基本的にそれに従っていた。

現業だけに一般職員と異なる賃上げを認めることはできなかった。


田川知事の指示に従い、各部と話し合って行政を進めて気がついたことがある。

県議会議員や地元企業の様々な要求の中に、県にとって無理なものや不適当なものが数多く見受けられたのだ。

予算や制度の要求などは最終的に知事査定で決まる。 

だが選挙で選ばれる知事や県会議員と長く付き合わねばならない県の幹部職員の立場が厳しいことは理解できる。

そこで、断るべき事項はなるべく自分の段階で断るようにした。

東京から出向してきた総務部長にとって、それが一つの役割だと思ったからだ。


当時の三重県財政は健全だったものの、木曽岬干拓や長良川河口堰といった高度成長期に始まった大型プロジェクが今後の大きな負担となりかねないと考えた。

だが、その見直しは簡単でない。

長良川河口堰を例にとると、当時の建設省、通産省、厚生省が所管に絡み、事業地域は岐阜県、愛知県、三重県の3つにまたがっていた。

結局できたのは、工業用水の権利の一部を愛知県に譲渡し、将来の負担増に備えた水基金を設けたことぐらいだ。

河口堰は94年に竣工したが、水需要は計画の1割程度にとどまった。

木曽岬干拓も88年に工事を終えたが、農地としての利用はなかった。


もう一つ三重県に来て驚いたのは、道路事故 水害や病院事故で県が損害賠償を請求される事例の多さだ。

地方公共団体も対象となる国家賠償法で、当時の判例は県に落ち度がなくても「無過失責任」を問う傾向が強まっていた。

こうなると典型的なモラルハザード(倫理観の喪失)が生まれる。 公務員は「どうせ無過失責任を負わされるが、公共団体の求償権には制約がある」と考える。

住民の側も災害や事故に対する必要な注意を払わなくなる。


一地方の問題ではないと感じ私は、専門誌「ジュリスト」の2年10月1日号に投稿を寄せ、法律専門家に警鐘を鳴らした。

地方交付税の矛盾も感じた。

使い道を特定しない交付金のはずだが、数十の測定単位を使って配分額を決め、まで補助金のように機能していた。


三重県からの帰任後、大蔵省の財政金融研究所の理論誌で、この問題を論じた。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑫】


1988年、国際機構課の仕事始め(前列左から2人目が筆者)


G7の「お目付け役」に
中南米債務で宮沢構想


米国対日独

1986年6月に大蔵省に戻り、官房調査企画課の参事官を拝命した。 

日本や西ドイツと米国の間で貿易摩擦や経済対立が深刻になっていた。

日独は米国の保護主義の高まりをおそれ、85年9月の「プラザ合意」で、ドル相場を下げて円とマルクを上昇させる為替介入で合意した。

ドルは1㌦=230円から直後に200円、1年後に150円まで下落した。

それでも日独の対米黒字は減らなかった。


86年5月の先進国首脳会議(東京サミット)で、中曽根康弘首相は米国の意向に沿い、主要7カ国(G7) 蔵相中央銀行総裁会議の創設を主導した。

日米独と英国、フランスによるG5の 調整を超え、より広い経済政策の調整を通じて日独と米国との対立解消を目指すものだった。


ただ、省内には別の問題があった。

このような方向を敷いた大場智満財務官が、大蔵省の国内経済部門と十分に調整していなかった。

私が就いた新設の参事官ポストは、どうやら財務官や国際金融局がG7で「独走」しないためのお目付け役だったのだ。

課長クラスの参事官にそんな役割を期待するのは無理だと思った。

貢献できたのは国際通貨基金(IMF)との経済見通しの折衝ぐらいだ。


着任後初のG7蔵相会議前、IMFが示す日本の成長率が低すぎたと感じた。

省内で主張すると、国際金融局長の内海さんに「それほど言うなら、自分でIMFに修正させなさい」と言われた。

ワシントンに渡り、ドラロジエール専務理事に直訴した。

 「経済見通しはスタッフが専門的に作成している。政治的に左右することはできな

い」と断られた。

だが実際にG7会議に示された日本の成長見通しは、0・1㌽だけ「蹴上げ」されていた。

収穫もあった。 

出張中に読んだIMF年報で、サウジアラビアの30億の貸付契約が終了するとの情報があった。

日本が貸し付ければIMFに評価されると考えて内海局長に進言、直ちに実行された。


87年2月、過度なドル安の是正を目指す「ルーブル合意」。

為替介入と日独の経済刺激を通じ、ドル相場を現状程度の水準で安定させるとい

う、イタリアを除いたG6の合意だ。

事前に知らされず、宮沢喜一蔵相や行天豊雄財務官による決定を東京で聞いた。


87年7月、国際金融局の国際機構課長になった。

懸案はIMFの低開発途上国への低利融資での支援を強化する「拡大構造調整ファシリティ(ESAF)」の創設だ。


カムドシュ専務理事率いるIMF案は、日本と西ドイツが市場金利より低利でESAFに資金を供給するというものだった。

これを日独が市場金利で資金を供給し、全ての先進国が公平に金利を負担る案に変えてもらった。


日本輸出入銀行(現国力銀行)が信託基金のESAFへの資金供給にⅠMFの保証を要請した。

IMFが「資金返済のために金売却を含めてあらゆる措置をとる用意がある」として、成立した。

カムドシュ氏は97年末、国際機構課にお礼にきた。


中南米債務で「宮沢構想」も担当した。

ⅠMFや世界銀行が融資を広げ、債務国が成長で債務を返す「ベーカー構想」が頓挫していた。

宮沢構想はIMFの監視下、債務の元本は削減せず、利子を減免する枠組みだ。

88年9月のIMF・世界銀行総会で最大の話題になったが、米国は支持しなかった。

だが翌年、米国が提唱した「ブレイディ提案」は、債務削減を加えた宮沢構想の換骨奪肢版だった。(前日本銀行総裁)



【私の履歴書 黒田東彦⑬】


村山蔵相はバブル膨張へ懸念を抱いていた
(1989年2月、右端は竹下首相)

村山蔵相、融資規制に意欲
地価税導入は手遅れ


バブル崩壊

戦後の日本経済で大きな転機となったのが、資産バブルの膨張と崩壊だった。

1982年11月から5年間の中曽根内閣の時代、日本では日米円ドル委員会、プラザ合意 主要7カ国(G7) 会議の創設、ルーブル合意などを通じ、対米配慮から財政金融の拡張策が続けられた。


円高圧力のもとで景気回復を助けたのは確かだ。

だが86年の6兆円規模の景気対策(1兆円の減税策を含む)をみて、官房参事官や国際機構課長をしていた私は、景気を過熱させる懸念があるとひしひしと感じていた。


87年11月から89年6月の竹下内閣の下でも資産バブルは膨張し続けた。

しかし、円高が物価上昇を抑制し、インフレは起きなかった。

投資マネーが流れ込んだ不動産価格は急騰した。
そのうちに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の掛け声に誘われて、日本株も上昇し始めた。

その最中の88年12月25日私は村山達雄蔵相の就任に伴い、秘書官事務取扱に就いた。

消費税導入を含む税制改革法が成立した日だ。


竹下登首相はリクルート事件で辞任した宮沢喜一氏が就いていた蔵相ポストの兼務を解いた。

村山さんは大蔵省で主税局長を務めた税制のベテランだ。
消費税導入に伴う1円玉不足や便乗値上げの懸念など執行面の国会質問を無難にこ
なした。


89年4月1日0時に東京税関で消費税が輸入品に課税されるのを視察された。

村山さんはバブルの膨張に対する感度の鋭い人だった。

ある日、「これほどの地価昇が起きているのは、金融機関が融資しているからに違いない。不動産融資に対する規制を検討すべきではないか」と話をされた。


銀行局を呼び、蔵相への説明を求めたが、彼らは慎重だった。

「金利自由化業務規制の緩和、短期金融市場の整備などを進めた。融資規制ような自由化に逆行するものは好ましくない」という。


だがその後、海部内閣の橋本龍太郎蔵相は、90年3月に不動産融資に対する総量規制を導入する。

効果は予想以上で、不動産バブル崩壊の一因となった。


だが、株式市場を含むバブル崩壊を招いたのは、89年12月に就任した三重野康日銀裁の下での「バブル潰し」の金融引き締め策だった。
日経平均株価は88年末の3万8915円8銭の最高値から急落して、90年10月には2万円を割った。
株価と地価は90年代を通じて下落を続け、金融機関の不良債権問題を深刻にした。


村山さんを巡ってはもう一つの記憶がある。

88年5月、北京でのアジア開発銀行(ADB) 総会からの帰国後、私たちに「総会のあった人民大会堂の外ではデモが広がっていた。趙紫陽国家主席はたいしたことではないと言ったが、私はあれは深刻だと思う」と言われたのだ

翌6月に起きた。天安門事件の到来を予見していたのだと思う。


宇野宗佑氏に代わり海部俊樹首相が就任し、村山蔵相の時代は約8カ月で終わった。

 私は主税局に戻り国際租税課長になった後、税制課長に異動した。

尾崎護主税局長と小川是審議官のもとで、地価税を含めた土地税制の抜本改正に取り組んだ。


その後、お世話になる一橋大教授の石弘光・政府税制調査会土地税制小委員長、塩川正十郎・自民党税制調査会会長の指導力で「地価の高騰を防ぎ、土地の有効利用を促進する」ことを目的とした地価税導入が90年12月に決まった。

残念ながら、時期が遅れたことは否めない。

(前日本銀行総裁)



【私の履歴書 黒田東彦⑭】


ドイツ統一を祝う市民。

その余波で米国による 「日本たたき」 が強まっ

(1990年10月3日)=ロイター


マルク統一、東ベルリンで
日本たたきが経済低迷招く


冷戦の終結

1990年代初頭、東西冷戦が終結した。

私はドイツ、旧ソ連、北朝鮮の変化に政策現場で触れる機会があった。

ドイツは90年7月1日、約3カ月後の統一に先立って東西の通貨マルクを一対一の比で統一した。

その日を東べルリンで迎えた。


国際租税課長の私は尾崎護主税局長とパリでの経済協力開発機構(OECD) 租税委

員会に出席後、ボンでドイツ大蔵省の主税局長に会った。

通貨統一と同時に東ドイツは西ドイツの付加価値税を導入する。

「準備は万全だ」と聞き、東ベルリンに向かった。


1日朝、人々が早く預金下ろそうと銀行を取り巻き、ガラス窓を打ち破る状況がテレビで報じられていた。

ホテルの領収書にはきちんと付加価値税額が示されていた。


91年12月にゴルバチョフ氏が大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。

主要7カ国(G7)の仲介で旧ソ連の15共和国の対外債権・債務をロシアに片寄せしたが、巨額の対外債務の処理が課題だった。


私は千野忠男財務官の副財務官として88年7月の先進国首脳会議(東京サミット) の準備を担当した。 

ロシアの債務削減を主張する米独に、日本と他の欧州諸国は巨大な石油資源を持つロシアに債務削減は不要だと反論した。

は旧社会主義国の市場経済化を支援する体制移行ファシリティー(STF)」を国際通貨基金(IMF) に 時限的に設けることを主導した。


IMFのスタッフは融資の条件が緩むことを懸念した。

私は「通常の融資条件が恒久的に弱められるより、時限的な枠組みで対処した方が良い」と説得し、サミット前にSTFの創設にこぎつけた。


94年に国際金融局の援助担当の審議官となり、北朝鮮の核疑惑に対応した。

米国は当初、北朝鮮の核施設の爆撃を考えたが、北朝鮮の反撃でソウルに百万人の死者が出ると言われた。

結局、米国はプルトニウムを量産する黒鉛減速炉を廃棄させ、軽水炉2基を提供することで北朝鮮と合意した。

米国務省はアジア開発銀行(ADB)による支援を提案したが、北朝鮮は加盟国でなくADBは原発支援をしていないと説得した。

最終的に朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設置、韓国7割、日本3割の負担で軽水炉を建設することになった。


1基目の建設開始後、北朝鮮がウラン濃縮で核兵器を製造しようとしていることが分かり、KEDOは空中分解した。

北朝鮮は朝鮮戦争以来、体制の保証を中国に頼った。

90年代に中国が米国に接近し始め、独自の核兵器の開発に動き出したのだろう。


冷戦終結のもう一つの副産物がドイツの地位低下だ。

対等の通貨統合をした旧東独経済の低迷が響いた。

70~80年代は日独が米国の貿易・為替政策の標的だったが、90年代は日本だけだった。

鉄鋼半導体、パソコンなど日本の競争力が強いセクターは貿易・投資の制限と円高で大打撃を受けた。

自動車だけが米国進出で生き延びた。


90年代前半、日本の経済低迷の主因はバブル崩壊だった。

だが90年代後半は日本たたき(ジャパン・バッシング) の影響が大きかった。


95年に国際金融局次長になって、榊原英資局長をサポートした。

為替相場では一時的に行き過ぎたドル安が進み、米国が日本と協調してドル買い介入をした。

その時ですら米財務省は及び腰で、あきれた。

クリントン政権は後期にドル高政策に転じたと言われた後でも、円高・ドル安を是正しようとはしなかった。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑮】


来日時に橋本龍太郎首相㊨と会談するウズベキスタンのスルタノフ首相

(1998年1月)


為替や税制でアジア支援
酒税巡り欧米を行脚


政策対話

1996年、大蔵省財政 金融研究所(現財務総合政策研究所)の所長に就いた。

アジア諸国を訪ね、当局者と政策を巡る対話に力を注いだ。


ウズベキスタン訪問は千野忠男元財務官の勧めだった。

ソ連崩壊後、スムという自国通貨が流通したが、為替管理と同時に複数為替相場が定着していた。

首都タシケントでスルタノフ首相兼商務相や蔵相に会い、複数相場が貿易投資を阻害していると指摘したが、反応は鈍かった。


印象的な反応があったのはアシモフ証券取引所理事長だ。

後に国立のウズベキスタン銀行頭取や財務相を務め、私がアジア開発銀行(ADB)総裁になった後も常に連絡を取り合う仲になった。


ミャンマーでも複数為替相場の問題を議論した。

公定レートと闇レートの差が10倍以上という異常な状況だった。

為替管理が担当の蔵相や中央銀行総裁の反応はやはり鈍かったが、エイベル国家計画・経済開発相は複数為替相場の是正に積極的だった。


そこで、旧知の伊藤隆敏一橋大学教授にフォローアップをお願いした。

元国際通貨基調査局上級審議金(IMF)で、のちに副財務官をお願いした経済学者だ。


伊藤さんはその後、ミャンマー、東京、ワシントンを往復し、為替相場の統一プログラムをまとめてくれた。

IMFと日本はミャンマーがまず為替相場を統一すれば支援するとしたのに対し、ミャンマーはIMFと日本の支援が先だと主張し、この時は為替相場統一の合意に至らなかった。

後年、テインセイン大統領の下で統一がなされた。


ベトナムとも積極的な対話をした。

同国はIMFの融資を受ける条件として付加価値税の導入が求められていた。

「最近、付加価値税である消費税を導入した日本の経験を知りたい」と政策に関する技術支援を要請してきた。


私は石弘光一橋大学教授とともにハノイを訪れ、財政省と国税庁の幹部を対象に数日間のセミナーを実施した。

ベトナムからは後に「付加価値税法案が議会で否決された。議員に付加価値税の重要性を説明してもらえないか」との依頼が来た。

これは技術支援でなく政治支援になると考えて私は断ったが、石さんは単身、ハノイに渡って議員の説得に尽力した。

1年後に法案が成立した。


薄井信明主税局長に頼まれ、 税制を巡る国際折衝にも駆り出された。 

酒税法の焼酎とウイスキーやブランデーの税税率格差が世界貿易機関(WTO)の内国民待遇の原則に反すると日本が欧州共同体(EC)に訴えられた問題だ。


外務省の野上義二経済局長 とともに欧米を訪問した。

まず、プリュッセルの欧州委員会で対外貿易担当委員に会った。

焼酎の税率を引き上げとウイスキーやブランデー税率を引き下げて、両者の税率格差を些少(de minimis)にしたと日本の対応を説明した委員は納得したが「最も強硬な英国やフランスにも説明した。

方がよい」と言う。

英国の貿易産業省と仏経済大蔵省を訪ね、了解を得た。


次の関門は米国だった。

米通商代表部(USTR) を訪ねると「欧州との合意に何か追加がないと、米議会が納相得しない」と譲歩を求めてきた。 

カナダも同様だった。

日本に帰国して薄井局長に報告したが「これ以上のことはできない」との言う。ところが幸いにも関税局がバーボンウイスキーの関税を微少な幅で下げると、USTRは了解した。 

カナダの要求は外務省の野上局長の「放っておこう」という態度を踏襲したら、最終的に了解してくれた。

(前日本銀行総裁)


【私の履歴書 黒田東彦⑯】


局長就任と同時にアジア通貨危機が襲った(国際金融局長室で)

地域の「基金」創設、幻に
韓国へ波及米国が危機感 


アジア通貨危機 

大蔵省の国際金融局長に就いた1997年7月はタイでアジア通貨危機が始まった時 だった。

通貨バーツの防衛へ実施した先物のドル売り・バ ーツ買いが成功せず、外貨準 

備が枯渇した。バーツはドルとのペッグ(相場の固定)を保てずフロート(変動相場制) 移行を追られ、急落した。


タイのタノン蔵相が支援を求めて急きょ来日し、榊原英資財務官とともに会った。榊原財務官は「国際通貨基金(IMF)のプログラムで短期の外貨債務や経常収支の見通し が明らかになれば、日本は支援する」と述べた。


IMFは95年のメキシコ通貨危機時を踏襲し、タイにクオータ(出資割当額)の5倍の40億Jの支援を約東した。

だが当時、アジア諸国のクオータは急速な経済成長に追いつかず、少なすぎた。

支援を 補完するため、日本は97年8月にタイ支援国会合を開き、日本の40億㌦を含む総額110億㌦の支援をまとめた。

それでも通貨危機は収まらず、周辺他国に波及していった。 

翌9月、香港でのーMF・ 世界銀行総会で、日本はタイ支援国会台に参加したアジア 諸国を集めた「アジア通貨基金(AMF)構想」について原則合意を得ようと試みた。


構想は私が97年2月に財政金融研究所長としてタイで会議に参加したのが契機だ。


タイの経常赤字は国内総生産(GDP)の8%。チャトモンコン大蔵次官やタンヤ・タイ中央銀行理事にドルペッグをどう修正するか聞くと、対応を決めかねていると告げられた。

これでは通貨危機に なってもIMF支援では不十分だ。

そこで地域の通貨基金のようなもので補完できないかと思いつき、溝想のメモを加藤隆俊財務官らに渡した。

IMF総会の直前、三塚博蔵相はアジア欧州会議(ASEM)の会合で、東南アジア諸国連合(ASEAN)と韓国からAMF構想への強い支持を得た。


だが香港での協議で中国とオーストラリアは消極的な態度だった。

オブザーバー出席のはずのフィッシャーIMF第一副専務理事とサマーズ米財務副長官も「IMFの融資の条件を弱める」と強く反対した。

AMF構想はあえなく棚上げになった。


新基金ができていたら、との思いはある。

続いて苦境に陥ったインドネシアへのIMFの支援もクオータの5倍では不十分だった。

一方でIMFは財政金融の引き締めに加え、食糧調達庁の廃止や丁子の独占の排除など通貨危機と 関係のない数十の溝遺改革を条件にした。

インドネシアは通貨危機から深刻な経済危機に陥った。


98年3月に橋本龍太郎首相がジャカルタでスハルト大統領と会談した。

両首脳は財政 金融の引き締めは守るが構造改革は融資条件から落とすことで一致、私がーMFに伝えた。

だが5月のジャカルタ暴動で大統領は退陣。ハビビ副大統領が後任に就いた。


通貨危機は韓国にも波及した。

IMF支援を渋っていた米財務省のガイトナー次官補から97年11月に電話で「韓国にIMFがクオータの20倍の支援をする。支持してほしい」と頼まれ、もとより賛同した。

相互防衛条約のもとで米軍が駐留している韓国の危機を懸念し、米安全保障当局が介入したのだろう。


韓国の外貨準備が枯渇する状況で、ガイトナー氏から再び電話があった。

12月24日の主要7カ国(G7)共同声明 は「G7の銀行が韓国の銀行への外貨融資を続けるよう要請する」と明記した。

韓国通貨危機がやっと収まった。 (前日本銀行総裁) 



【私の履歴書 黒田東彦⑰】


神戸のアジア欧州会議(ASEM)財務相会合の際にインドネシア側と会談する

宮沢財務相固と筆者(2001年1月)


外貨融通で支援拡大 
宮沢蔵相「地元タイの名前に」


チェンマイ合意 

日本は1998年の国際通貨基金(IMF)・世界銀行総会の場で、通貨危機に陥ったアジア諸国の復興を支援する300億㌦の「新宮沢溝想」を公表した。

150億㌦の長期支援は直ちに実行、残りの150億㌦の短期支援は韓国やマレーシアとの通貨スワッ プなどに使われた。

「チェンマイーイニシアチブ(CMI)」 のひな型だった。 


99年7月、私は榊原英資氏の後任として、大蔵省(2001年1月に財務省に改称)の国際部門を率いる財務官に就いた。

当時の第1の課題は、アジア諸国を支援し、外貨を融通する金融安全網を設立することだった。


東南アジア諸国連合(ASEAN)に日本、中国、韓国を加えたASEANプラス3で検討を続けた。

幸いにも00年5月にタイ・チェンマイでのアジア開発銀行(ADB)総会の際に開いた蔵相会議でCMI創設にこぎつけた。


名付け親は宮沢喜一蔵相だ。

「タイのタリン蔵相の選挙区であるチェンマイで創設されるのだから、チェンマイ・イニシアチブが良い」と指示されたのである。


当時、IMFは協調に慎重な姿勢だった。

変わったのは、アジア通貨危機での対応を批判された力ムドシュ専務理事が辞任し、00年5月にドイツ出身のホルスト・ケーラー氏が後任に就いてからだ。


実は欧州復興開発銀行(EBRD)の総裁だったケーラー氏がIMF専務理事候補として日本に支持を要請してきた時、私はCMIの受け入れを条件にした。

ケーラー氏は約束を守ってくれたのだ。


CMIは質と量の面で充実していった。

規模拡大の一方、2国間の通貨スワップを手続きの共通化で多国間に広げたCMIMにして、迅速な支援ができるようにした。 


サーベイランス(監視)のための機関として11年4月にASEANプラス3マクロ経済調査事務局(AMRO)を創設した。

いまAMROは国際機関となり、IMFとの協力も進む。


CMIMの規模は2400億㌦に達した。

IMFの支援プログラムを受けなくても引き出せる部分も当初の10%から4倍に拡大した。 

実質的な アジア通貨基金が実現したともいえる。


財務官として第2の課題は為替の安定だった。

米欧当局者と真剣なやりとりをした。

就任後から続く円高・ドル安を是正する円売り介入に、米財務省のガイトナー次官が文旬をつけてきた。

私は「主要7カ国(G7)の合意で介入は事前に通告することになっているが、了解を取る必要はない」と反論した。


市場では行き過ぎたユーロ安も進んだ。

日米欧でユーロの買い支えをした際には、ユー口圏を代表するフランスのジャン・ルミエール大蔵省国庫局長と話し合った。


01年、ジョン・テイラー氏が米財務次官に就いた。

この頃には円高は収まり、介入の必要性はなくなった。


テイラー氏とは主にアルゼンチン危機への対応やアフガニスタン支援など、グローパルな課題を話し合った。

テイラー次官とは印象深い思い出がある。

塩川正十郎財務相がオニール財務長官を招いて東京で会談する前日の01年9月11日、米国で同時多発テロが勃発した。

随行中の彼と、市場の動揺に対応する為替介入について打ち合わせをした。

日米財務相会談は中止され、オニール、テイラー両氏は翌日に帰国した。


日銀総裁を退任した直後にも、スタンフォード大教授に戻ったテイラー氏と大学で再会した。(前日本銀行総裁) 


【私の履歴書 黒田東彦⑱】


速水日銀総裁園とは何度も国際会議の場で同席した

(2002年9月、ワシントンのIMF本部)ーロイター 


ゼロ金利解除に疑問抱く 
「インフレ目標」で英紙に寄稿


デフレの始まり 

1998年4月、56年ぶりに改正した日本銀行法が施行された。

新日銀法では総裁、副総裁2人、審議委員6人による金融政策決定会合で政策を決める仕組みにした。 


99年に通貨政策の責任者で ある財務官となった私も当然、日銀の政策に意見をいう 立場にはない。

だが98年ごろから消費者物価の下落が始まるなど日本経済がデフレに陥るなか、政策の迷走に何度も、もどかしい気持ちを抱いた。


98年3月、速水優日銀総裁が就任した。

速水氏はゼロ金利政策を導入し、不況と金融危機に対処した。

だがデフレの状況が続いているにもかかわらず、日銀は2000年8月にゼロ金利政策を解除した。

私はこの決定は間違っていると思った。


新日銀法は蔵相が日銀に議決の延期を求める権利があるもあると定める。

慎重論もあったが、宮沢喜一蔵相が「誤った決定と考えるなら、否決されるとしても議決延期請求権を行使し、歴史の審判を仰ぐべきだ」と指示したと聞いた。


今年4月に私の後継の日銀総裁に就いた植田和男氏は、当時の審議委員として解除に 反対票を投じた。

金融緩和を長く続ける姿勢を伝えて物価や景気を刺激する「時間軸効果」に鑑み、ゼロ金利を続けるべきだと主張した。

私も植田氏の考えに共感した。


実際に経済状況は悪化し、01年3月に日銀は量的緩和政策としてゼロ金利の復活を強 いられた。

それでも速水総裁はゼロ金利や量的緩和は異例のことであり、金融市場に悪影響を与えると強調した。

物価が下がることにはプラス面もあるという「良いデフレ」論を展開し、円高・ドル安を歓迎する発言もしてデフレを悪化させた。 


私は敬虔なクリスチャンの速水総裁を人間として尊敬していた。

だが金融政策や為替を巡る発言には困らされた。


99年9月25日の主要7カ国 (G7)蔵相・中央銀行総裁会議議でのことだ。

私はサマーズ米財務長官やガイトナー財務次官を説得し、「日本の円高懸念を共有する」との表現を声明に盛り込ませた。 


だが記者会見で速水総裁は 円J高容認ともとれる発言をしてサマーズ長官を激怒させ、速水総裁が再度の記者会見を開いたこともあった。


一橋大学教授から大蔵省に出向して副財務官となった伊藤隆敏氏はサマーズ長官とハーバード大学で一緒だった。

G7声明の調整も手伝ってもらった。

01年後半に円高は止まり、財務官として為替介入をすることは減った。

だが、デフレは着実に進んでいた。


当時、もうーつの国際的な問題が中国の人民元の過小評価だった。

金立群・財政部副部長(後のアジアインフラ投資銀行=AIIB=総裁)にも、ドルへのペッグ(固定相場制)をやめて人民元を切り 上げるべきだと伝えた。


伊藤氏の後任として東京大学から出向中の河合正弘副財務官と共同で、02年12月2日 付の英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)に「グロ ーパル・リフレーションへの転換の時である」という寄稿をした。


中国発のデフレ圧力が世界に広がっていることにも注目し、先進国は例えば2-3%の インフレターゲット (目標)を採用し、中国は人民元を切り上げるべきだと主張した。

私は中国政府の関係者 に人民元切り上げの必要性をその後も訴え続けた。 


塩川正十郎財務相にはG7などの国際会議に随行した。 

常に日本の国益を考え、外国の財務相と親密な関係を築かれたことに感服した。

大蔵事務次官の薄井信明、武藤敏郎の両氏には内政と通貨外交の調整に関し、大変お世話にな った。

(前日本銀行総裁) 


【私の展歴書 黒田東彦 ⑲ 】


一橋大教授として米プリンス トン大で講演した(2003年)

米国の識者と政策論議 
同時テロ翌日、東証開場を進言


小泉官邸 

私は2003年1月、35年半を超す大蔵省・財務省の勤務を終えて退官した。

財務官の在任が3年半と異例の長期に及んだのは、塩川正十郎財務相が「もう少し長くやってもらおう」と言い、退官が半年延びたからのようだ。


3月からは内閣官房参与になった。

首相官邸に呼ばれた背景はおそらく01年9月11日の米同時多発テロ後の議論だろう。その夜、小泉純一郎首相や田中真紀子外相が出席する危機管理室の会議に呼ばれ、福田康夫官房長官から「明日、東京証券取引所を開くべきかどうか」と問われた。


「財金分離」で00年7月に金融庁が発足し、財務省に東証の監督権限は一切ない。

柳沢伯夫金融担当相が決めるべきだと断りつつ、私は進言した。

「東証は太平洋戦争が始まった日にも開いていたと聞いています。

ニューョーク証券取引所は物理的な影響を受けて開場しないだけで、影響のない東証は開けて当然でしょう」。

福田氏はそのことを記憶していたのだと思う。


退官後、石弘光・一橋大学学長から、一橋大の大学院経済学研究科に教授として来るよう勧められた。

03年7月に教授に就き、国立キャンパスに研究室もできた。


内閣官房参与の仕事は月に2回程度、首相にアジアなど国際経済金融の情勢について話すことだった。

官邸内の部屋で色んな人と会えた。


バーナンキ米連邦準備理事(FRB)理事(後の議長)には「日銀が金利ゼロの準備 預金で金利ゼロの短期国債を買っても効果はない。長期国債や株を大量に購入すべきだ」と言われた。

スティグリッツ米コロンビア大教授からは「日銀に任せていてもデフレは止まらない。政府紙幣を発行して減税や歳出に当てるべきだ」と提案された。


彼らの意見は理解できるが、それが不可欠なものとは思わなかった。

当時は私の後任の溝口善兵衛財務官が巨額の円売り・ドル買い介入を実施し、福井俊彦総裁が率いる日銀が量的緩和を拡大して 「非不胎化介入」となっていた。 

この状況を米財務省のテイラー次官も支持し、円安が物価にも好影響を与えてい た。 


だが、06年3月に福井総裁もとで日銀が量的金融緩和の解除を決めた。

結果的には時期尚早だった。

08年の米リーマン・ブラザーズ破綻に伴う世界金融危機後にデフレ復活を招いたのは残念だ。


官邸にいて印象的だったのは小泉首相の決断だ。

米国と英国のイラク侵攻を支持した日本はイラクに陸上自衛隊を派遣したが、小泉首相は退陣 前に全隊員を帰国させた。

北朝鮮を訪間して日朝首脳会談に臨み、粒致被害者を一時帰国させながら、北朝鮮に戻さなかったのも見事だった。

 

小泉氏は英国のロンドン大学に留学したこともある。

経済には詳しかった。

それでも首相官邸でのぶら下がり取材のなどでは「改革なくして成長なし」といった根本哲学だけを述べ、具体的政策は塩川財務相や竹中平蔵経済財政担当相に任せた。


当時、英国では欧州単一通貨ユーロへの参加が議論されていた。 

小泉首相からその可能性があるのかどうか、欧州に行って確認してほしいと頼まれた。


ユーロ参加を支持するブレア英首相の経済顧間、懐疑的な英財務省幹部に話を聞き、英国を歓迎するフランスの元経済財政相や「ルールを守れば 歓迎」とするドイツ野党のキリスト教民主同盟(CDU)の党首に会った。


帰国して結果を報告すると、小泉首棺はたちどころに「英国のユーロ参加はないな」。

彼の判断はいつも明快だった。 

(前日本銀行総裁)



【私の展歴書 黒田東彦 ⑳ 】


パリで援助政策をめぐるフォ ーラムに参加(2005年3月)


着任直後、津波被災地を支援
地域統合の戦略を練る


ADB総裁に 

私は2005年2月1日、アジア開発銀行(ADB)の第8代総裁に就いた。

本部のあるマニラに向かい、到着したホテルで千野忠男前総裁から引き継ぎを受けた。

新旧総裁が同時に本部にいることはないとの伝統を踏襲じた。


翌日に千野氏はマニラを出立し、私はADB本部で12人の理事や幹部スタッフを前に 基本方針を述べた。

渡辺武・ 初代総裁以来の伝統にならい、途上国に教えを垂れるのでなく、途上国の声をよく聞く「ホームドクター」として行動しようと呼び掛けた。


私は事務の説明を職員から聞く暇もなく、着任後直ちに前年12月のインド洋津波で大な被害を受けた諸国への緊急無償援助を理事会で決め、インドネシアに向かった。


インド洋津波による死者・行方不明者はアジア全体で22万人、インドネシアだけで17万人近くにのぼったといわれる。

緊急支援は国連や各国政府、非政府組織(NGO)などが担い、地域の開発銀行は復興支援にあたるのが通例。

だが、巨大な被害だけにADBも緊急支援をする必要があると考えた。

準備金を取り崩して6億㌦の無償資金をインドネシアなどに提供した。


ジャカルタではユドョノ大統領に会って緊急無償支援の実施を伝え、本来のインフラや住宅に関する復興支援について話し合った。

その後に北スマトラの被災地を視察したが、その被害は言葉を絶する惨状だった。


05年10月にはパキスタンの力シミール地震で9万人、08年5月の四川大地震でも9万

人近い死者がそれぞれ出た。

どちらの災害でもADBは復 興支援を実施し、私自身も現地を訪れて視察した。  


感染症もアジアの大きな問題だった。

02年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、04年の鳥インフルエンザ、09年の新型インフルエンザがアジアで猛威を振るった。

被害を受けた国々を、ADBは世界保健機関(WHO)や先進国政府と協力して支援した。


ADBには感染症の専門家がわずかしかいなかった。

一方で感染症の専門医が数十人いるマニラのWHO西太平洋地域事務局は資金が+分でなかった。

事務局長だった尾身茂さんに相談し、両者が協力して感染症の被害を受けた国々に技術支援をした。


最近の新型コロナウイルスの感染拡大でも、ADBは200億㌦を用意して途上国の医療や経済対策を支援した。 


一連の取り組みを通じて、ADBが従来進めたメコン川流域や中央アジア地域のイン フラ整備の経済協力の枠組みを超え、幅広い経済統合を推進する必要があると考えた。

総裁の直属組織として「地域経済統合室」を創設し、財務官在任時の後半に副財務官を務めた河合正弘東大教授を室長に招請した。


河合さんは東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国の「ASEANプラス3」の協調を推進した。

彼のもとで練った地域統合戦略が06年7月に「地域協力・統合イニシアチブ」として理事会で承認された。


地域インフラの整備、自由貿易地域(FTA)による貿易投資を通じた経済統合、ASEANプラス3などの金融協力、自然災害や感染症への対応など地域公共財の洪給という4本柱を掲げた。


ADBはアジア地域の開発銀行として、各国の経済発展や貧困削減の支援だけでなく、地域の底上げを狙った様女な地域協力を促してきた。

それまではADBにある5つの地域局が個々に域内のインフラ整備を担ったが、新しい統合戦略の完成で、初めて包括的で地域を横断した広域の協力体制が整ったといえる。

(前日本銀行総裁) 


【私の展歴書 黒田東彦 ㉑ 】


マドリードでのADB総会で記者会見に臨む(2008年5月)-ロイター-

気候変動への対処に重心
長期戦略の達成、数値で点検


2020年戦略 

アジア開発銀行(ADB)が地域統合を展開する中で、話題となったのが地球環境、特に一丸候変動への姿勢だ。


アジアは巨大な人口を抱え、経済成長も著しい。

一方で二酸化炭素(Co2)の排出が急増し、地域での気候変動の緩和(ミティゲーション)が重大な課題になった。

太平洋やインド洋の島しょ国では高波や海水面上昇などへの対応が迫られていた。


そこでADBに専門家会合を設けることにした。

気候変動問題の権威である米コロンビア大学のジェフリー・サックス教授兼地球研究所長に座長をお願いした。


その提言に沿って、道路や空港などの整備に向けた支援を減らす一方、太陽光や風力など代替エネルギーの開発や送電網の整備、鉄道などエネルギー効率の高い交通網の支援やエネルギー節約型の都市支援を強化した。

島しょ国ヘの援助も確認した。


様々な取り組みを通じ、私はアジアの将来とADBの役割について本格的に議論し、長らく放置されたADBの長期戦略を新しい状況に合わせて作り直す必要があると考え た。 


2006年春、スパチャイ国連貿易開発会議(UNCTAD)事務局長を座長とする専門家グループを作った。

当時のメンパーはサマーズ元米財務長官、出井伸之ソニー前会長、ジャスティン・リン北京大学教授、イーシャー・アルワリア印国際経済関係研究所会長、カイオ・コッホウェザー前独財務次官だった。


忙しい専門家が1年間に4回も集まり、億雄識雄の議論をしてくれた。 

サマーズ氏には米ハーバード大の学長室で会ってグループ参加を求めた。 

その時には「地域開発銀行の総裁より大学の学長の方が難しい」と話していた。

ところが議論を重ねると「地域開発銀行の総裁は学長と同じくらい難しい」と認めるようになった。


このグループはADBのスタッフの手を借りずに、独自の画期的な報告書を07年初め にまとめた。

報告書を基礎にもう1年、加盟国の政府や経済界、開発の専門家、非政府組織一NG0)などと各地で対話を重ねた。

08年春に「ストラテジー2020」というADBの新たな長期戦略が完成し、理事会の承認を得た。


長期戦略では「包摂的な経済成長」「環境面で持続可能な成長」「地域協力・統合」の3つを戦略的な課題と位置づけた。

ADBの役割はインフラ、環境、地域統合、金融、教育の5分野に絞った。

各種の課題がどれだけ達成されているかを毎年、数値目標を用いて事前事後にチェックする ことになった。 


マニラにはこのときですでに5年以上住んでいた。妻と2人で落ち着いた暮らしを送 っていたのだが、唯一困ったことがある。

常に5人の警護がついていたのだ。

休日であろうが、ショッピングセンターであろうが、警官1人、ガードマン4人が常に我々に同行した。 

国際的な地域開発銀行のトップという立場上、分厚い警備は仕方がないことかもしれない。

だが、どこにいても目立ってしまい、プライバシーを保つのは難しかった。 


ADBの総裁として年に20回ほどフィリピンの外に出張し、各国の首脳と会った。

中国の温家宝首相、インドのマンモハン・シン首相、インドネシアのユドョノ大統領などとはそれぞれ5、6回はお会いした。

首脳の人柄にも触れることができた。

(前日本銀行総裁)




【私の展歴書 黒田東彦 ㉒ 】


総裁の任務を支えてくれ たロハニ副総裁(左から 4 人目)らADBの同僚

ADB大幅増資で欧米説得
通貨外交の人脈が助けに


リーマン危機 

新長期戦略の「ストラテジー2020」を掲げたアジア開発銀行(ADB)の次の懸案は、支援体力を高めるため の15年ぶりの増資だった。 


アジアの発展途上国にとって体制強化は切実だ。

アジア諸国の理事は200%の増資を支持。

オーストラリアの理事も賛同し、日本の大村雅基理事も本国の指示を超えて200%増資を支持した。 


だが、増資の率を巡って、加盟国間の議論は混迷した。 

欧米出身の理事が150%増資を支持し、アジア諸国との立場の隔たりが生まれたからだ。


議論を始めた矢先の2008年9月に米リーマン・ブラザーズが破綻し、世界経済は金融危機と不況に陥った。

ドルが国際取引の中心だったアジアでは、米銀がドルを供給しなくなって、急激な外貨不足に見舞われた。


大幅増資が必要だとの機運は金融危機でむしろ加速した。

ある国の理事は「長く増資が実施されなかったため、リーマン危機の影響を受ける途上国への十分な支援を可能にすることが必要だ」と200%増資を支持してくれた。

だが、増資についての多数決のハードルは高かった。


ADBは創設以来、日本と米国の投票権が同数の1位で、オーストラリアを含むアジア諸国や欧米諸国の投票数と差があった。

理事会は日本がアジア側につくか欧米側につくかで多数が決まる。


だが重要決定である増資は 総務会での75%多数決の賛成が必要だった。

理事会で増資案を決めても、このままでは総務会で否決されてしまう。


私は欧州の理事選出国であるイタリアとドイツに向かった。

イタリアの総務は後に欧州中央銀行(EcB)総裁となるイタリア銀行(中央銀行)のマリオ・ドラギ総裁。

主要7カ国財務相代理会合(G7D)でよく知る仲で、200%増資を支持してくれた。

ドイツで会ったハイデマリ ー・ウィチョレクツォイル経済協力開発相も財務官の時に世界銀行関係の会議で何度か議論したことがある。

経済協力開発省の元局長でADB副総裁のウルスラ・シェーファープロイス氏の働きかけもあり、増資の支持を得た。

米国に赴き、ガイトナー財務長官に200%増資への支持を訴えた。

ガイトナー氏は私が財務官の時の財務次官で、為替政策などで意見の応酬をした関係。 

どうなることかと懸念した。

直ちに賛同はしてくれなかったが、数週間後に賛成を伝えてきた。 


200%増資でADBの資本金は3倍の1500億㌦に拡大。

金融危機の影響を受ける途上国への融資は以前の70億㌦前後から200億㌦程度に増えた。

職員も3年で500人多い3000人への増員を加盟国に認めてもらった。


歴代総裁はいずれもほぼ6年程度で退任していた。

私は干野忠男前総裁の残任期2年 を引き継ぎ、06年に再選された。

任期が来る1年前に後任探しを日本政府に依頼したが、適切な候補がいないとのことで、11年8月に3選された。 

在任中に私を支えてくれたビンドウ・ロハニ副総裁、ラジャット・ナグ事務総長、坂井和戦略・政策局長とはその後も交流している。


先に記したように、私は13年2月に安倍晋三首相の電話を受け、日銀総裁に指名され 

た。

約8年をともにした同僚に丁寧なお別れを言う暇もなく、3期目のわずか1年でADBを去るのは心苦しかった。

急な事態だったので、まずロハニ氏を総裁代行にした。

私と同じ財務官を務めた 中尾武彦氏が4月に総裁に選ばれた。

(前日本銀行総裁) 



【私の展歴書 黒田東彦 ㉓ 】


異次元緩和を「2」が並ぶパネルで説明する(2013年4月)


物価目標への決意鮮明に
「2年」巡り入念に議論 


異次元緩和 

2013年3月20日、私は白川方明氏の後任として、第31代の日銀総裁に就任した。

初めて率いる組織で、日本経済の懸案であるデフレ克服に 全力を尽<す決意を自分の言葉で伝えたい。

そう思い、翌21日の就任挨拶を考えた。


 「いま、日本銀行は岐路に立たされています」。

副総裁や審議委員、理事、幹部職員などを前に、まず私は危機感を語った。

日本経済は1998年以来、15年も続くデフレに悩む。

世界中でこんな国は1つもない。


「中央銀行の主な使命が物価安定であるならば、98年の新日銀法の施行以来、日銀は使命を果たしてこなかったことになります」。

どんな要因があろーとも、それらを克服して「日本銀行が全力を挙げて物価安定目標を1日も早く達成し、物価安定を通じて国民経済の健全な発展に資する」ことこそが責務なのだと、行内に心から訴えた。


幸い、白川前総裁のもとで日銀の政策委員会は消費者物価上昇率を2%とする物価安

定目標を定めた。

達成に向けスタートから次元の違う強力な金融緩和を思い切って実施する。

戦力の逐次投入はしない。

その決意をどう国民や市場に明確に伝えるか。

4月3~4日の初の金融政策決定会合に向けた準備を進めた。


まず達成の期間だ。

13年1月の政府と日銀の共同声期は2%の物価目標を「できるだけ早期に」実現すると記す。

金融政策の効果が現れるには2年程度のタイムラグがあるというのが当時の内外の常識だ。

その間で目標達成に必要な緩和策を、審議委員を含むスタッフと入念に議論した。


金融政策決定会合で「2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に2%の物価 安定目標を達成する」方針を決めた。 

「量的・質的金融緩和」導入は全員一致だった。 


長期国債の保有残高を年間約50兆円相当のペースで増やし、マネタリーベース(資金供給量)を年間約60兆~70兆円相当のペースで増加させる。

買い入れる長期国債の平均残存期間を3年弱から7年程度に引き上げ、上場投資信 

託(ETF)の保有残高を2年で2倍に相当するペースで増加させる。

総力を挙げたデフレ脱却の姿勢を強調した。


記者会見では大きなボードを指さして説明した。

「マネタリーベースを2倍にして、2年で2%を達成する」とはっきり示したのは雨宮正佳理事らのアイデアだった。


大胆な緩和策で海外から日本を見る目も変わった。

日銀の強い意志に呼応して株価は上がり、経済は想定通りに反応した。 

14年春に消費者物価上昇率は1%台半ばに達し、経済成長率も1%台に回復、失業率も3%台に低下した。


誤算は賃金の上昇率が低迷し、物価L昇の勢いが不十分だったことだ。

14年4月の消費税率5%かり8%への引き 上げで、駆け込み需要の反動による消費低迷が起き、物価上昇が鈍化した。


14年10月の決定会合でマネタリーベースの増加額を年間約80兆円に広げ、買い入れる長期国債の平均残存期間を7-10年程度に延長する措遺をとった。

15年12月には長期国債の平均残存期間 を7~12年程度にし た。 


この間を通じて、岩田規久男、中曽宏の両副総裁など日銀の役職員からのゆるぎないサポートはありがたかった。

当初の成功にもかかわらず、「2年程度で2%の物価目標を達成」との見通しは徐々に困難になりつつはあったが、早期達成に必要な追加措置を機動的にとることが、デフレ脱却 という国益にかなうと考えた。

(前日本銀行総裁) 


【私の展歴書 黒田東彦 ㉔ 】


日中韓の中央銀行総裁会議で来日した周小川中国人民銀行総裁㊧、

李柱烈韓国銀行総裁固㊨と(2016年10月)


原油・人民元安に懸念 
決定会合、賛否5対4の薄氷


マイナス金利 

2%の物価安定目標の達成へ新たなハードルとなったのが、世界的な原油安だった。 2014年に1バレル100㌦程度で推移した原油価格は、15年には50㌦、16年の初めには 

30㌦を割り込んだ。


日本は化石燃料のほとんど100%を輸入に頼っている。

急速な原油価格の下落は消費者物価の押し下げ要因となる。

日本の消費者物価上昇率は15年度に0.0%、16年度にはマイナス。0.2%と、じりじり下がっていった。 


中国の人民元の大幅な下落も起きた。

15年1月、国際通貨基金(IMF)は人民元を特別引き出し権(SDR)構成通貨に入れると決めた。

それに向け中国が資本規制を緩和して人民元を「自由利用通貨」にするための諸政策で、資本流出が加速した。


これは日本の物価安定にも悪影響が及ぶ。

私は16年1月、スイスでの世界経済フォーラム(ダボス会議)に登壇し、英留学時代からの知人であるフィナンシャル・タイムズ(FT)のマーティン・ウルフ氏 の質問に「中国は資本規制を 強化した方がよい」と発言した。

人民元安が再び日本を含むアジアにデフレ圧力を及ぼす懸念があった。


新興国経済への先行き懸念もあり、世界的な株安や円高が進んでいた。

スイスに出発する前、私は追加金融緩和の選択肢を議論できるように、内々に準備を要請していた。


帰国後、1月29日の金融政策決定会合で、日銀はマイナス金利政策の導入を決めた。 民間の銀行が日銀に資金を預ける日銀当座預金の金利を一部マイナスにした。

長期金利を下げるための国債の大量購入だけでなく、短期金利をマ イナスにすることで、中長期にわたる金利を押し下げる。

金融緩和の余地を増やし、効果を高める狙いがあった。


決定が意外と受け止められ、批判の声があったことは承知している。

欧州中央銀行 (ECB)が先駆けて導入したマイナス金利政策は金融機関の収益に悪影響を及ぼすと不評を買い、米連邦準備理事会(FRB)はマイナス金利を導入しないと明言していたからだろう。


私たちは資金仲介を担う金融機関の負担を抑えるよう、日銀の預金金利を3層構造と する工夫をした。

プラス0.1%の金利を付けてきた従来の残高には引き続きプラス0.1%、増加する預金の金利はゼロ%とした。

マイナス0.1%の金利は総額20兆~30兆円の限界的な預金だけに適用し、金融機関の収益への影響を小さくできると考えた。


それでも決定会合では賛成5、反対4というぎりぎりの決定だった。

13年4月の量的・質的金融緩和の導入は全員一致で、その後の金融政策の調整も大半はほとんどの委員の賛同を得てきた。

マイナス金利の薄氷の決定は、政策委員会の意見が分かれ、物価目標達成への道が曲がり角にきていることを示していた。


16年7月、日銀は上場投資信託(ETF)の買い入れ増額とともに、量的・質的金融緩和やマイナス金利の効果について「総括的検証」の実施を決めた。

3年余りの政策をオーバーホールして、今後の方向を決めようと考えたのだ。


日銀総裁として私は 主要7カ国(G7)や 20カ国・地域(G20)、国際決済銀行(BlS) などの国際会議に参加し、多くの中央銀行総裁らと親しく話すことができた。 その中の1人に中国人民銀行(中央銀行)の周小川総裁がいる。

私が財務官の時から 人民一元切り上げについて何度も意見交換した。

日銀総裁としてともにしたBIS5総裁会議などの場でも、彼の率直な説明が強く印象に残った。

(前日本銀行総裁)



【私の展歴書 黒田東彦 ㉕ 】 


再任にあたり安倍首相との会談で握手(2018年4月)


長短金利を適切に形成
安倍氏の注文一切なく


YCC導入 

2016年9月、3年余りにわたる日銀の量的・質的金 融緩和やマイナス金利政策などの「総括的検証」が金融政策決定会合に示された。

2カ月近くをかけ、経済モデルなどを総動員して分析した力作だ。

日銀スタッフがこうした場で発揮する能力の高さには感心する。 


まず、異次元緩和は人々が予想する物価上昇率を押し上げ、名目金利を下げる効果があったと記した。

実質金利の 低下で経済・物価が好転し、デフレでない状況になった。


最大の課題は2%の物価安定目標がいまだ実現していないことだ。

原油安や消費増税後の需要の弱さ、新興国の経済減速や国際金融市場の動揺が作用した。

過去の物価低迷をひきずりがちな「適合的期量待形成」で、予想物価上昇率も弱含みに転じた。


時間をかけ、相当な先を見据えて物価が上がるとの期待を作る必要がある。

資金供給量を長期間で増やし、マイナス金利と国債購入を組み合わせた政策で、イールドカーブ(利回り曲線)に影響が及ぶことがわかった。

曲線が平らになりすぎると金融仲介機能や年金運用に悪影響を与え、経済活動にマイナスとなる。


長短金利操作(イールドカーブ・コントロール=YCC)の導入がこうして決まった。

マイナス金利に加え、10年物の国債金利がゼロ%程度で推移するよう国債を購入する。

この枠組みを2%目標の達成に必要な時点まで続ける。

実績の消費者物価上昇率が安定的に2%を超すまで資金供給の拡大を続けると約束して「オーバーシュート型コミットメント」と呼んだ。


YCCの導入後に物価上昇率は1%近く、経済成長率も資金供給1%程度に改善した。 

失業率はデフレ期の半分の2%台半ばまで下がった。

問題は賃金上昇率が依然として1%以下にとどまったことだ。

単純計算でも労働生産性の伸び率が1%で物価上昇率が2%なら、3%程度の賃金上昇になるはずだ。

賃金上昇が低迷している限り2%の物価目標の安定的な達成は難しい。


様々な政策を投入したが、デフレ期に醸成され「物価も賃金も上がらない」というノルム(社会通念)は予想以上に強固だった。

23年になって春の賃金交渉で4%近い賃上げが進み、人々の物価の見通しも上がってきた。

このノルムが変わるかどうか、日本経済は正念場を迎えている。


私は18年4月、日銀総裁に再任された。 

日銀理事の雨宮正佳、早大教授の若田部昌澄の両氏が副総裁に就いた。


私を任命した安倍晋三首相とは年2回ほど首相官邸で2人だけでお会いし、経済や金 融の状況を説明した。

再任時は麻生太郎副総理・財務相とともに官邸を訪れた。

意外かもしれないが、在任中、安倍氏から一度たりとも注文めいたことは言われなかった。


総裁時代はほぼ年に50-60回ほど国会に呼ばれ、予算委員会や財務金融委員会などで金融政策について答弁した。 

スイス・パーゼルの国際決済銀行(BlS)の委員会で国会との関係を聞かれ、そのこ とを話したら「それで仕事になるのか」と驚く中央銀行の総裁もいた。 

米連邦準備理事会(FRB)議長の議会証言は 年4回、欧州中央銀行 (ECB)は年3回程 度で、かなり多いのは事実だ。


だが、私は日銀が果たすべき国会への説明責任は理解できる。

1998年に施行した新日銀法で政府から独立した組織になり、国会との関係が重要になったからだ。

与野党を間わず、金融政策の考え方、金融市場の状況、経済や物価動向などについて質間を受け、説明する機会は非常に重要だ。

 (前日本銀行総裁) 



【私の展歴書 黒田東彦 ㉖ 】


支店長会議は各地とオンラインで結んで開催した(2021年7月)


在宅4割 記者会見は対面で 
緊急オぺで流動性供給に腐心 


新型コロナ禍 

2020年の初頭、新型コロナウイルスの感染拡大が世界を揺るがした。

日本も例外ではなく、経済や社会、そして我々の行動様式を変えていった。

日銀総裁の私にとっても未知の挑戦だった。


日本政府は国民にマスク着用を勧め、緊急に開発されたワクチンの輸入に努めた。だが、その強い感染力はとまらない。

政府は緊急事態宣などで飲食店や店舗の営業を規制し、外食や旅行の需要が急減した。 


感染抑止のために経済活動を意図的に止めることで、雇用や景気も悪化しかねない。

政府は中小企業を中心に属用調整助成金などで支援し、国民にも直接、給付金を支給した。

日銀も20年3月の金融政策決定会合で、中小企業に豊富な流動性を供給するため、 銀行に低利資金を貸し付ける 「コロナオぺ」の導入を決めた。

その残高は最大で90兆円ほどに拡大し、企業倒産や失業を防ぐ効果があった。 


欧米に比べ、日本などアジアの新型コロナの擢患者や死亡者は、人口百万人当りで5分の1かり8分の1程度にとどまった。

経済への打撃もアジアは欧米に比べて小さかった。

だが本格的な消費者心理の回復はワクチンの普及で感染が減り始め、経済成長率が プラスに戻る21年までかかった。


外出先やオフィスでの感染を防ぐ在宅勤務も前例のない規模で広がった。

日銀でも一時は本店で4割近くの職員を在宅にしつつ、業務には支障をきたさないよう苦労した。


コロナ禍で21年未まで対面の国際会議はなかった。

自分が出席するものだけでも年に40-50回のオンライン会議が開かれ、日本では米国東海岸の早朝、欧州の昼頃にあたる夜8時以降の開始となる。

国際決済銀行(BlS)でも総裁会議、世界経済会議、理事会などが別々にオンラインで年30回くらい入った。


海外出張による時差の苦しみは消えたが、秘密保持などの理由から本店に来なければならない職員に遅くまで働いてもらうのは心苦しかった。

私も欧州中央銀行(ECB)の国際金融会議に午前0時過ぎの総裁室から加わった。


米連邦準備理事会(FRB)やECBの政策会合後の記者会見は軒並みオンラインになったが、日銀は透明性の確保のため対面形式を続けた。

密集防止へ、支店長会議を開く大部屋に会場を変えた。

新型コロナの感染がヤマを越え、22年ごろから経済も正常化してコロナオぺの残高も急激に減っていった。

対面の国際会議も復活し、主要7カ国(G7)や20カ国・地域(G20)、BlSなどの枠組みで各国の財務相や中銀総裁と久しぶりの再会を歓迎した。


率直な意見交換は、お互いの語気や雑談を含めて気脈を通じ合う一対一の対面でないと、やはり難しい。

22年5月には対面形式を再開した世界経済フォーラム(ダボス会議)に参加し、ハーバード大のサマーズ教授やコロンビア大のスティグリッツ教授らと旧交を温めることができた。


百年に一度とも言われたコロナ渦は世界の経済の構図も変えた。

新型コロナ対策として「ゼロコロナ」のような極端に厳しい規制を敷いた中国では生産が激減した。

中国からの車載部品や半導体の供給に依存した日本企業は大幅な生産制限を余儀なくされた。


コロナ禍の当初、中国からの輸入に頼ったマスクの不足は、他国からの輸入や国内生産で解決された。

車載部品や半導体も、調達先の多様化や内製への移行が必要になった。

この傾向は今も続き、いわゆる「チャイナ・プラス1」戦略は一層加速している。

(前日本銀行総裁) 



【私の展歴書 黒田東彦 ㉗ 】


花束を手に日銀本店を後にする(2023年4月)ーロイター

ウクライナ危機の爪痕深く
「好循環の兆し」と行員に謝意


総裁を退任 

日銀総裁の任期終盤に直面したのが、2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻だった。


ロシアは侵攻前にクリミア半島を併合し、ウクライナ東部を親ロシア勢が占拠。ドイツやフランスが仲介した2度の停戦協定も破った。


国際法違反の侵攻に、主要7カ国(G 7)は徹底した経済・金融上 の制裁とウクライナ支援拡大で極めて迅速に結束した。

国際銀行間通信協会(Swift)の対象からロシアの銀行を排除してロシアの貿易に障害を与え、G7諸国はロシアが保有する約6000億㌦の外貨準備の半分を凍結した。

日本も外国為替法に基づく政令で凍結を指示した。


G7の協調と裏腹に、国際経済・金融の問題解決を探る最重要のフォーラムとされた 20カ国・地域(G20)は著しい分断に陥った。

4月のG20財務相・中央銀行総裁会議は共同声明を出せずに閉幕した。

イエレン米財務長官や英国の代表がロシア財務相のビデオ演説とともに一時退席す る場面を、会場で目撃した。


ウクライナ侵攻への非難声明はロシアが反対、スリランカなどの債務削減は中国が反対、石油増産はサウジアラビアの反対で軒並み葬られた。


中ロとサウジ、G7や欧州連合(EU)とオーストラリアがそれぞれグループを形成し完全に対立した。

これにブラジル、インドネシア、インド、トルコなど新興国勢が中立を保つ。

見たことのない対立の構図になった。


G20の機能不全は世界経済の分断を招いた。

ロシア離れの一方、貿易と投資の両面でG7諸国も広い結びつきがある中国との関係は手探りだ。


総裁任期の締めくくりが近づくなかで、日本の物価も上がり始めた。

エネルギー価格高騰と欧米との金利差拡大に伴う円安の影響で、化石燃料の大半を輸入に頼る日本は二重の上昇圧力を受けた。


政府は1㌦=150円台まで円安が進んだ時点で為替介入を実施、135円程度まで戻した。

それでも消費者物価 は上昇を続け、23年1月には 4.2%に達した。

石油や天然ガスの価格低下で物価上昇率は3%程度となった。


22年12月の金融政策決定会合では長期金利の変動許容幅を0.25%程度から0.5%に広げることを決めた。

「事実上の利上げ」と受け止められたが、あくまで市場機能を回復して緩和策の効果を高める措置だった。

エネルギー価格の高騰による物価上昇は望ましい形ではなく、粘り強い金融緩和はなお必要だった。


総裁退任前日の23年4月7日、役員や幹部職員に挨拶をした。

デフレ脱却と2%の物価目標の持続的・安定的な達 成を目指した量的・質的金融 緩和を、物価や経済の情勢に応じた改良を伴いつつ進めた。

幸い経済成長は戻り、就業者も増加してデフレではない状況になった。

しかし2%の目標が未達成であるのは残念だった。

そう率直に語った。


「皆さまが幅広い取り組みを通じて粘り強く金融緩和を・続けることに力を注いでくれた。日本経済に好循環が生ま れようとしていると思われます」と、私は日銀の行員に深い敬意と謝意を伝えた。

菅義偉、岸田文雄の両首相を含め、在任中に政権から政策への指図はなかった。

一方で 民間部門からは長年の金融緩和による副作用の指摘もあった。

だが、デフレを脱却して物価安定を実現するための有効な代案はあっただろうか。私なりに国益を追い、最善を尽くしてきたつもりだ。


後任の植田和男総裁は中学・高校の後輩で、研究官として大蔵省にも籍を置いた旧知の間柄だ。

成功を祈っている。

 (前日本銀行総裁) 




【私の展歴書 黒田東彦 ㉘ 】


ラガルドECB総裁卿とは長い交流がある

G7当局者と腹を割り交流
著名学者の率直な示唆に学ぶ


国際人脈 

財務省、アジア開発銀行(ADB)、日銀などでの仕事を通じ、諸外国の政府当局者や 学者と数多く出会い、たくさんのことを学んだ。


若い頃から今でも付き合っているのが、アフリカの低開発途上国の支援に力を尽くしたミシェル・カムドシュ元国際通貨基金(IMF)専務理事だ。

専務理事に就任後、いち早く低開発途上国に対する拡大構造調整ファシリティー (ESAF)を創設させた。

その情熱には頭が下がる。 


1997年のアジア通貨危機の際、地城の新興国に厳しい構造改革を迫るIMF支援の手法には到底同意できなかた。

だがその後はADB総裁時代に新興市場フォーラムの共同議長として活動をともにした。

2022年5月、翌年に90歳を迎えるのを祝うパーティーでも祝辞を述べた。


もう1人の古くからの友人が、後にイタリア首相になったマリオ・ドラギ前欧州銀行(ECB)総裁だ。

彼が財務次官でコンファレンスに同席した際、オランダの銀行総裁の講演後に「彼らはドイツ連邦銀行のやる通りに金利を上げ下げする門番のようだ」と私に語りかけた。

ある国際会議で「金融緩和が長続きすると『ゾンビ企業』が生き残る」という問題提起に対し、ECB総裁の彼が「いま金融を引き締めて健全な企業までつぶしてしまえというのか」と一喝したのを目撃し迫力を感じた。


クリスティーヌ・ラガルド ECB総裁との思い出も多い。

08年2月、彼女がフランス経済財務農用相として参加した東京での主要7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議。

当時の石油価格高騰の原因に石油デリバティブ(金融中央派生商品)があると力説し、ンク・ポールソン米財務長官を防戦一方に追い込んた。

ADB総裁としてハノイで総会をした11年のことだ。

英国の記者に「ラガルド氏が候補となり、IMFの歴代専務理事の座をフランス入が独占するのはおかしくないのか」と聞かれた。

「彼女は完壁な専務理事候補だ」という私の発言が報じられてしまったが、ラガルド氏は「ありがとーっ」と言ってくれた。

法律家の彼女とはBIS会議などでも意見の一致が多かった。


米財務長官を務めるジャネツト・イエレン氏とは、彼女が米連邦準備理事会(FRB) 議長の時代によく話した。

15年にギリシャ国債が事実上の債務不履行(デフォルト)に陥ると、ドイツなどが「銀行が持つ自国通貨建ての国債にもリスクウェートをかけて、リスク資産とみなすべきだ」と主張した。

その時にイエレン氏は毅然として日本の反対に同調してくれた。

「米国債はインフレになってもデフォルトしない」と私にささやいたのも鮮明Hな記憶だ。 


インドのアマルティア・セン教授、米国のジョセフ・スティグリッツ教授やポール・クルーグマン教授などノーベル経済学賞の受賞学者とも色々な機会に交流した。

難しい経済理論は決して述べず、日本の問題を具体的に指摘して対策の示唆をくれた。 

セン氏には日銀総裁の就任直後、バンコクでの講演に招かれた。

日銀総裁を退任して米コロンビア大で講演した際に、スティグリッツ教授宅にクルーグマン教授とともに招かれ、夫人の手料理を楽しんだ。同大のジェフリー・ サックス教授とも長い交流がある。

最近も彼の来日時に日中韓の学会の交流強化について話を聞いた。


なお、13回目で超紫陽氏の役職は「共産党総書記」だった。

ここで訂正したい。 (前日本銀行総裁) 




【私の展歴書 黒田東彦 ㉙ 】


日本や海外の学生に教 訓―を伝えたい(政策研究大学院大学で)

政策の経験、若者に伝える
複雑化した国際法秩序を探究


学者生活 

今年4月に日銀総裁を退任した私は、学者生活を始めた。

7月には政策研究大学院大学の特任教授に就き、政策研究院シニア・フェローと兼務する。


白石隆元学長の勧めもあり、公共部門の仕事を辞めた後は、大学で教育と研究に従 事しようと考えていた。

10月からの秋学期で「構造変化の下での財政金融政策」の講義を始めた。

2024年の春学期には、留学生に英語で同様の講義をする。

24年1~4月には、米コロンビア大学大学院で国際金融や金融策を教える予定だ。

スタンフォード大学やハーバード大学でも講演をした。


これまでの財政金融政策、為替政策、経済援助などに関する私の失敗や成功の経験と教訓を、内外の若者に伝えたいと思っている。

研究へのこだわりもある。

ロシアのウクライナ侵攻後に国際金融の状況は急激に変わりつつある。

20カ国・地域(G20)で合意された約100年ぶりの国際課税の変革も進んれている。

こうした分野で理解を深め、将来の担当者に少しでも参考になる分析を示すのが、私の希望だ。


別次元のテーマとして、国際法秩序の法哲学的な基礎を探究しようとも思っている。

東京大学の碧海純一教授の下で勉強した時から、ずっと気になっていた。


国内法は各国の憲法のもとに整然とした法秩序があるー方、憲法の根拠は様々だ。

自然法、観念的な規範、あるいは現実にない全国民参加の憲法制定会議と、違いがある。


一方の国際法秩序は主権国家による明文の合意か暗黙の合意に基づく。

強固にみえるが、近年は主権国家だけでなく、国民の権利や義務を定めるものが増えた。

その根拠は「憲法に沿って議会で承認されている 」と言うほかない。

国民が直接に関与しないだけに、国内法秩序より根拠が不明確になったともいえる。


国際化が進み、世界各国の国民は入り乱れた法秩序の下で暮らしている。

状況を整理し、国際法秩序の法哲学的基礎を明確にする必要がある。

実務家、国際法学者、法哲学者などと対話しながら、何とか考えを書にしたい。

本編では詳しく記さなかったが、忙しい半生を支えてくれた妻、そして2人の息子と その家族に感謝の意を改めて伝えたい。


これからは内外の訪れたことのない地を旅して、その歴史や文化を感じる機会を探ろうと思う。 

勤務や出張を通じてアジアや西欧はほぼくまなく行ったので、いつかは帝政ロシアの首都だったサンクトペテルブルクを訪れ、エミルミタージュ美術館も鑑賞したい。

ウクライナでの戦争が一刻も早く、平和的に解決することを心から望んでいる。

中国・チベットのラサ、エジプトのルクソール、ペルーのイン力遺跡も 訪問希望のリストにある。


最後に、若者や後世代の人に伝えたいことがある。

経済は生き物であり、絶え間なく変化する。

さらに、数年に1回ほどは予想しなかったショックにも見舞われる。 

半世紀以上の公職で私が関わった経済的なショックは、数えたところでも11回もある。 


その際にはどうするか。

極力早く事態を把握するとともに、内外の過去の事例に学び、思い切った対応策を素早く決断して実行する必要がある。


リスクを恐れて優柔不断であることは、事態を悪化させるばかりである。

さまざまな政策現場で培った私の経験が、何かの役に立つことを心より願っている。

(前日本銀行総裁)